現在、世界のベストセラー『ホモ・デウス』。歴史家ユヴァル・ノア・ハラリの著書。中国語にも翻訳され、中国でも読まれている。その上巻の180~182pに貨幣・国家・神などのフィクションが通用するために、共同主観的なレベルが語られているところを長いけれど引用する。この本の本筋の部分だからだ。

貨幣が共同主観的現実であることを受け容れるのは比較的易しい。たいていの人は、古代ギリシャの神々や邪悪な帝国や異国の文化の価値観が想像の中にしか存在しないことも喜んで認める。ところが、自分たちの神や自分たちの国や自分たちの価値観がただの虚構であることは受け容れたがらない。なぜなら、これらのものは、私たちの人生に意味を与えてくれるからだ。私たちは、自分の人生には何らかの客観的な意味があり、自分の犠牲が何か頭の中の物語以上のものにとって大切であると信じたがる。とはいえ、じつのところ、ほとんどの人の人生には、彼らが互いに語り合う物語のネットワークの中でしか意味がない。意味は、大勢の人が共通の物語のネットワークを織り上げたときに生み出される』

以上のことは、神話や宗教、家族や貨幣、企業や国家、法律や習慣、現代で言えば仲間、学校時代の同窓会、国同士の条約など人間世界が歴史上、作り上げてきたすべてのフィクションに当てはまる。フロイト学者岸田秀さんの『唯幻論』に近い概念だ。(人間は本能が壊れた動物で、それを生めるために幻想をつくらざるおえない等)。

ハラリさんは、ホモサピエンスは、ほかの動物と違って、フィクションを共有し合う、協力し合って大規模な集団になっていくプロセスを読み解いていく。最初は小さな嘘なんだけど、それが100人、1000人、1万人が信じると真実になってしまい、いつのまにか最初のときの嘘を忘れてしまう。宗教によくある話だ。金も最初は貝殻や塩で代用できて、次は銀や金貨、そして現代の信用に基づく紙幣だ。単なる紙にインクで刷って透かしと番号を入れてどんどん刷り、流通させる。それだけの話なのだが、このフィクションで大人は証券や株券を作って遊んでいるし、死ぬ人も多い。しかし、紙幣は、信用さえあれば、国境を越えて別な物やサービスに変換できる。お金の本質は運動だから、動かないと腐る。金に限らず、イデオロギーもフィクションで現実を動かす。声が大きければなお効果が絶大になる、さらに死んだ後も天国があって自分はそこに行くなどと思い込まれたら、それを信じない他人には大きな迷惑になる。

『ホモ・デウス』のほんの3pを引用させてもらった。彼の前の著作『サピエンス全史』より面白いかもしれない。現代、一番の資本主義国家(中国)で読まれているのだからわからないものである。ユダヤ教、キリスト教、イスラム教に距離を取っている本なので読まれているのかもしれない。反対に、アメリカが私には何でも統制する昔のソビエトにトランプ政権が見えてくる。日の丸万歳番組の多い日本のテレビ局も閉塞感漂い、哀れである。もっと自由な活字の世界に遊びたいものである。

 

  1. 神や仏は実在しないと断言するのは、進化した現代だからかも知れませんね。お互い手探りで生きていた時代には情報伝達も人から人へと口伝えが基本ですから、膨大な時間と労力が必要だったのでしょう。善し悪しは別にして、そこで宗教が一役かったとも言えるかも知れません。全ての宗教は理解してはいませんが、今になっても、幼い頃から神や仏に関わる暮らしをして来た昭和生まれの私などは、今も初詣で神頼みをしたり、おみくじを引いて一喜一憂したり、身近な先祖へのお礼や供養でお盆やお彼岸には寺詣でや墓参りなどしています。小さいながら仏壇もあります。祖父が僧侶でしたが、私も既に宗教集団からは縁遠く離れてしまってはいますが、死後に天国や地獄など有るか無いかは考えた事はありません。散骨だの樹木葬だのお墓だのと死後の演出にも一切関心が無く、ただ灰になって何ら痕跡を一つも残さず土に帰るだけだと自分には言い聞かせています。友人には神道も仏教も新興宗教信者も居ますが、彼らも目立った強引な布教活動などはしていません。信じるものは信じて、信じない者は信じない自由な時代ですからね。言って良いのか悪いのか?元号も変わりますが、言ってしまえば、考え方次第では、これだって幻想の一部かも知れませんよ。あらゆる推測も、つまりは幻想とも言えますけどね。

    • フィクションと幻想という単語二つで世の中のことがするするわかってきます。たとえばブランドという単語もそこに物語がくっついていて(フィクションであっても)ブランドが構成される。あの人もこの人も同じ話(神話)を話すから、きっとそれはそうなのだということですね。神も仏も信じない私は、天国も地獄ももちろん存在しないと考えてますが、絵画や彫刻でたくさん描かれていますから、人間の想像力は凄いものだと思います。

  2. 意味の無い異文化のぶつかり合いが紛争のもとですが、さらに言えば個人の置かれた環境で考え方も夫々異なり、自己主張が幅を利かせればトラブルの原因になりますね。そこを平均的な調整をしながら社会構造は成り立っているのでしょうが、最近はそのバランスさえも崩壊気味ですよね。個人の主張が、国や世界を混乱に陥れ始めていますね。個性の強さは、或るときは崇拝や憧れともなりますが、悪影響を与える場合も多いですね。一昔前には現実だった洗脳も煽動も今では通用しないとは思いますが、世界的に見てもオラガオラガばかりで優れた仲裁役が存在しなくなってしまったような感もありますね。現代には救世主などは誕生しないのでしょうか?。

    • 優れた仲裁役は本来、外務省的なところにいる人たちがその責務を負ってるはずですが、また国連が負ってるのですが、湾岸戦争以来、ブッシュに役割不要とされてしましました。昔なら事務総長が紛争当事国へ乗り込むこともあったのですが。コンゴ動乱のときハマーショルド国連事務総長が現地へ行き、たしか飛行機が撃墜されて亡くなったはず。命がけで仕事をしていた人が世界にいたのですがね。

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