昨日は、懺悔と告白について書きましたが、笑える話はいいとして「笑えない話」を聞くことはつらいよね・・ということ。北海道拓殖銀行が倒産したのが1997年11月17日。北海道経済は融資先の関連倒産が相次ぎました。拓銀社員のその後の人生も大きく変えました。それ以上に中小零細企業が連鎖倒産して、手形が紙切れになってしまった会社の従業員とその家族は、より条件のいい企業に入ったり、事業を興す体力・資金があればいいけれど、ほとんどはお先真っ暗になったはず。

倒産の一年前、筆者はある人から「瀬戸さん、たくぎんが倒産した場合の北海道経済に与える影響について現在、大蔵省でシミュレーションしているよ。大蔵省はたくぎんを倒すかもしれない」とひそひそ話があった。「嘘でしょう?」と言うと「大学時代の同級生が大蔵にいて、彼からの電話なので間違いない」。どちらも東大法学部出身。たくぎんが融資を続けないとA社やB社は倒産することはわかっていたのであるが、しかし、この時点で私が「たくぎんが倒産する可能性大ですよ」とアナウンスはできない。オオカミ少年になってしまう。

その話が100%真実であれば、取引先をたくぎんから別な金融機関に乗り換えが可能だし、そうであれば倒産を免れた企業もたくさんあったはず。当時、私が在籍した広告業界・マスコミもたくぎんの融資先スポンサーで潤っていたから、当然、たくぎんの話は言えなかったし、ニュースの出所を聞かれれば、話した相手に迷惑をかけるからそれも言えない。そんな悩みを1年間抱えていた。倒産になればなったで「なぜ、そのとき教えてくれなかったんだ」と詰問されることもあるから、下手に言えない。当時は手形が巨額に横行していて、「この手形を受け取らないなら、前の手形を現金化しないよ」と言われたら企業は思いっきり損切りでいけるだろうか。まして都市銀行である北海道拓殖銀行である。たくぎんの経営方向をアドバイスしたのはマッキンゼーというシンクタンクである。不動産やホテル事業に融資して大きく育てるということに切り替えたのである。

同様なことは第二次世界大戦を開始した時に、アメリカの国力を熟知していた人は「もう日本は負けるよ」と判断していたかもしれないし、1940年代は相当数の日本人はひそひそ「負けますね」と官僚や軍人含めて思っていたはず。言えば売国奴として憲兵にムショに連れていかれる。敗戦が確実になると数多くの大人たちは「やっぱりね、こうなると思っていた」と告白する人がたくさん出てきた。なぜそのとき言えなかった・言わなかったのだろう?・・・と誰でも思う。

東芝も原発に大きく依存しない企業になっていればもっと健全経営になったと今ならだれでも言える。中曽根康弘と正力松太郎が原子力発電の牽引にならなければ(学者なんて札束で頬を叩けばこっちを向く)、日本中に発電所の建設もなかったかもしれない。歴史や過去に「if」問題はないといえば、この議論は成り立たないが、実は現在に過去の深み(経験)と未来の種が埋まっていると思えば、今を掘り下げることは「過去を掘り下げ」「未来を構築する」たくさんのヒントの宝の山なのである。

しかし、ひとりで抱える重すぎる話、影響が半端でない話題はできれば避けていきたいが、こと命に係わることや企業や国家の命運を左右する話の真実の行方はしっかりと認識して生きていきたいものである。デマと真実はその時点で区別がつきにくいかもしれない。

  1. 私の会社は当時、北洋銀行の仕事をしていた。相互銀行時代からだから相当長いお付き合いだった。ある日頭取が日銀から出向されてきた。彼の顔写真撮影にカメラマンとアシスタントと僕の三人で伺った。気難しそうな彼はなかなか柔らかい表情をしてくれず手間取った。その後も頭取は日銀から出向の形がとられた。それが拓銀崩壊の序章だった。まさかのカエルが蛇を飲み込むシナリオになるとは当時は気づかなかったが?、倒産の数年も前から着々と準備は進められていたようだ。そんな我が社も、当時の銀行の統合劇に巻き込まれ、メインバンクの三和銀行の統合整理も手伝って倒産となった。当時の支店責任者だった僕は、支店社員には絶えず「今はどんな大きな会社も倒産する時代だから、他人事ではないよ。そうなれば、あなたたちを組合だって助けられないからね。」と言い続けていた。そんなある日、地方紙の方から「お宅で何かありましたか?」と電話が入り、近くて遠い支店には、自社よりも他社からの情報が早い事を思い知ったのだった。薄々気づいてはいたものの、組合員どころか、一般管理職さえ投げ出されたのだった。頼りは管財人のみ。それでも、何とか全員が退職金だけは確保できたので再就職活動もできてホッとした過去の苦い思い出だ。あの頃、自分の銀行がそうなるとも知らずに、わが社へ営業に訪れた拓銀の若造社員が、上から目線で「ウチと取り引きが無いなんて?珍しいですね」と。「わが社は北洋さんから仕事を頂いているので」と言って帰したが、彼もきっと、灯台下暗しで足元が見えなかったのだろうと。

  2. 特攻の兄を持つ弟。

    第二次世界大戦の負けをいち早く知ったのは、前線で戦う兵士たちでは無かったのでしょうか。親子以上に年の離れた兄は特攻要員として飛行場を転々としていたようですが、飛行機乗りが乗る飛行機が無くなってしまい、ベニヤ板でダミーを作って飛行場に並べてカムフラージュしたと言っていました。空母も亡くなり、挙句の果てに東北の海岸から米艦隊に向かってベニヤで作ったボートに爆弾を積んで体当たりを要請されていたようです。もちろん片道のガソリンですから、飛行機乗りも地に落ちたものです。い~や、海軍だけに海に落ちた?と言うべきでしょうか。彼らこそ意味のない戦いに、悔しい思いをしたと思います。終戦で生き残れたものの、多くの亡くなられた戦友の若者たちの事は忘れられなかったと思います。

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