サッカー大会のお祭りが始まり、ローマ帝国時代のコロセウムの野獣と奴隷の戦い、奴隷と奴隷(金銭の奴隷)に狂喜するローマ市民を思い出してしまうのは私だけだろうか?世界中のテレビ局に放送権を買ってもらうビジネス、協賛のランクで様々なFIFAから特権を与えられて、宣伝効果を期待するが、大会が終わればただの使い捨て。宣伝費を使えるくらいならその分、商品の売値を下げたほうがよほどいい。スポーツは平和の祭典ではなくて、擬似戦争。ゴールキーパー以外手を使えないことでより残酷なスポーツに変貌する。

スポーツが政治や戦争と切り離されたことはなくて、スポーツ記者が書くきれいごとではない。スポーツを利用して一儲けをしようとする人、スポーツで高校や大学へ試験を受けないで入れる道があったりする。近代人には利用価値がとても高い。なぜなんだろうか?筆者みたいな怠け者から言わせれば、何を好んでおのれを追いつめて走ったり、跳んだり、蹴ったり、叩いたり、くるくる回ったりするのだろうか?

ともかく、きょうのテーマは同じ空間(地上)と時間(今)のなかで、人間の暮らしや生死や誕生や天然災害や事故で、偶然の中で私たちは毎日生きているという確信に満ちた感慨に筆者は浸っていることだ。言い換えると、ラッキーやアンラッキーが人生に占める割合が、とんでもなく大きなファクターだということ。原因があって結果があるという世界ではなくて、原因がなくても起きることは起きる。禅問答のようなだけど、因果応報ではなく(応報)だけの世界ではないかなとも思う。起きてから理屈を考える、

  1. 広島は熊野町の義兄の家のすぐ近くの悲惨な土砂災害。倉敷の街が水没したかと思えば、今度はまた広島で濁流の大被害が出ました。愛媛でも被害が。広島カープは広島球場での試合を中止。こんな時にスポーツどころでは無いと。TVで被害を見て驚くばかり。不幸にも亡くなられた方々、避難所では家に戻れない人など現代日本で、こんな参事が起きるんですね。明日の事は約束されていないのに私たちは勝手に平穏な将来を想定しているんですね。イザ!事が起これば対応どころかパニックになりそうです。今回も便利すぎる世の中の落とし穴がいくつもある事を思い知らされました。過去の災害の記憶も薄れた頃に、必ず大きな災害はやってくるものですね。時を同じくしてタイの洞窟に閉じ込められた子供たちを救出するために、国を挙げて救出のための協力体制を民間人も自らすすんで構築したニュースは現代日本で無くしたものを見たような気がしました。ただ、日本でも甲子園を間近に控えた高校球児たちも、ボランティアで協力を申し出、泥の撤去作業に懸命に汗を流したニュースも。こんな時に議席を増やす法案をドサクサに紛れて通す国会もどうかと?思いますね。国会議員も全員ボランティアをなさっては?

    • 偶然、先月書いたブログがパソコン調子悪くて、アップ忘れていましたので掲載しましたが、まさか洪水やがけ崩れで自然災害
      が発生するとは思いもよりませんでした。被害者は原発もそうでしたが、国は冷たい。いつから国民に冷たい国になってしまったか?
      しかし、テレビも新聞も銀行もスーパーも一斉に募金を開始しますが、それよりさっさと国の予算を削り、霞ヶ関をスリム化して、天下り
      を全廃して、その補助金を被災地にドーンと上げれば、家も建つし、車も変えて、できるだけ前の暮らしに近づける工夫ができないもの
      かと思います。いずれ首都圏も自然災害で阿鼻叫喚、食物・水の取りあいが始まらないとも限りません。過去、私は自分の住んでいる町への
      意見に「たくさん、井戸を掘ってください」と提案しました。災害に強い街づくりの基本は飲み水の確保だからです。

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