前にも紹介したイバン・イリッチ(1926~2002)の言葉だ。無償性とは何ぞやという話から入るけれど、たぶん、気持ちの深いところから湧き上がる何かがいろいろな場面で結果として相手が喜ぶ結果になっているような心持ちみたいなことだろうか?それはよくある計算づくでやる、損得でする行為ではなくて、だからといって意識的なボランテァイでもなくて、曖昧模糊とした善意の表出に近いものかもしれない。現代人は自分を含めて、心理学を学び過ぎて、相手の気持ちを重んじ過ぎて、結果として早とちりだったり、深読みであったりする。それはどこか、相手を愚弄する結果になって『いま、あなたは、こういう動機からこうしたのね』と決めつけることにもなりかねない。しかし、ある人の行為を記述する(言語化する)ときに、原因を書かないと文章にならないから書く。そういう記述や発言が世の中に溢れている。何か自分が少し賢くなったような錯覚に陥る。しかし、『原因はわからないが、こうしてしまった』と、結果として相手が喜んでくれたのであればそれでいいじゃないかな・・という単純さのほうが多いと思うがどうだろうか?分析、分析、分析をして全体の雰囲気や穏やかさや温かさの回復を自分を含めて体感できない心身になってしまったのだろうか?相手を分析するときは、実は自分をも分析していることを往々にして忘れる。その判断や価値観が、実は、語る本人に固着している場合が多いということだ。『お前は馬鹿だ』というときに『俺は馬鹿だ』と同義だということ。『あなたは嫉妬深い』というとき『私は嫉妬深い』と同義。『あの人はケチだ』というとき『私もケチだ』と同義。褒める言葉よりも世間は悪言雑言が豊かな社会になってしまったから、それが自分に返ってきて人相の良くない人がきっと増えたのだろう。それに比例するように『無償性の喪失』が進んでしまった。落語家の住む長屋を復活したい。長屋を縦にすればマンション(立川談志)だが、自分たちで助け合えば管理費なぞ取らなくて済む(かな)。困った人が横にいれば助ける、それだけでいいのである。分析する必要はない。相手に失礼である。

  1. 思いやり、譲り合い、助け合い、が少ない時代ですね。自己主張が強く、オラがオラがの競争社会は教育の在り方にも起因しているのでしょうか。楽して高給取りになりたくて、若い間に競争に打ち勝ち抜くことで将来のレールが約束されるからですね。他人の事よりも先ず自分の事が優先される結果、格差はどんどん広がっていますね。「秋深し、隣は何をする人ぞ」ではなく、「付き合い無し、隣に合わずに済む暮らし」ですかね。

    • 『付き合いなし、隣に会わずに済む暮らし』。町内会やマンションの管理組合の役員でもしていないと付き合いが発生しにくいし、元々
      たいしてない個人の能力を『見せびらかす』だけに長けた教育を受けてますから、底が浅いばかりで、それが知られるのが怖くて他人と
      正面から得意分野以外は付き合わない、全人格的な付き合いをしないというのが、私の見るところです。競争社会でせいぜい30歳まで
      は楽をしても、20代に楽をすると後半の人生はミジメですよ。それでもいいというなら何をかいわんやですが。生涯、これ勉強ですよ。

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