8月20日、仕事でニセコへ。町役場を訪ねてニセコ生まれの私の父を知る人がいないか、仕事の合間に情報を集めた。総務の人から役場前の文房具屋さんを紹介された。72歳であった。私の父や義父を知っていた。生きているときに何でも訪ねてみるものである。ニセコ町は人口が約5300人で外国人が520人(外国人所帯が417)。約10%が外国人だ。以前は狩太という地名であったが、ある町会議員が「これからは観光です。町名をニセコにしよう」と提案した。近隣の町はカタカナ命名に反対したと文房具さんのご主人は言っていた。新しいことを始めると必ず反対者が出るのは世の常。平成の市町村大合併のときも町の名前を巡って全国で喧々諤々があったのに似ている。ニセコはスキー場が倶知安町にも係るので地名を独占されることで反対をしたのかもしれない。現在ではパウダースノーに魅せられてオーストラリア、中国、アメリカの富裕層が別荘を建てているし、観光客も多い。外国人の観光客はひとり10万円を費消するという統計もあり、夫婦なら20万円を小遣いで使う計算になる。ニセコや倶知安の土地は別荘地として買われ、建てられている。地価は高騰を続けてニセコ近辺をドライブした人ならわかるだろうが、ここは一体どこの国かと戸惑う住宅が並び、平日の昼間からバーベキューをしながら酒を飲んでいる外国人も多い。本州からある金持ちがニセコに別荘を建てたが、近所が全部外国人で本州より暮らしづらい町内だと愚痴をこぼしていた。私有地を持てない富裕な中国人が財産の保全と水資源への投資を含めて、ニセコの別荘地を購入している。中国ではすべての土地は国の所有であるからだ。町役場の中も活気があって、町の財政が悪くない証拠かもしれない。唯一の高校であるニセコ高校は修学旅行先を東南アジアにして、観光やホスピタリティーを学ぶ旅にしていると文房具屋さんは教えてくれた。大正9年にこの町で生まれ、長い闘病生活の母親の薬代がかさんで進学できず、教師になる夢を絶たれて、満州に渡った父であったが、いまのニセコはこんなに変わったよと報告できる旅であった。

  1. 真冬のニセコへスキーに行ったのはいつだったろうか?もう、かれこれ40年も前の事。極寒の山頂から夕方の羊蹄山がピンク色に輝いた景色は今も忘れられません。あの頃はシーズンに30数回もスキーをしたのですが、ニセコへは数回しか行けませんでした。スキー場も今ではスノボが主体でせから我々世代はつい行きづらくなりました。現在は夏場に広告の仕事先のホテルなどへは行く事はありますが、長く滞在した事もなく、余り詳しい事は判りません。外国資本が入って来ている事は確かなようですね。

    • 私も細かい数字までは把握してませんが、新庁舎を建設中でした。町民センターもすべて木造りの品ある建て方で、小学生や高校生が休憩してました。昼ごはんはニセコ駅のなかにあるカレーライスを食べましたが、ぴりっとしている自家製カレー。添え物の野菜も新鮮でした。滝のような雨が降って羊締山は見えなかったですが、帰りにお腹の部分だけ雲が晴れた山が見れました。私はスキーはしないので縁のないニセコでしたが、父はスキーで学校へ通ったと言ってました。晩年も歩くスキーを買って運動していたのも子供のころの習慣がよみがえったのでしょう。

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