ひとりになっても日常生活が困らない人、やることがたくさんある人は最強かもしれない。加えて農作業ができる土地と種を持ち、作物を作れる知識があればかなりしつこく生き延びれる。この年齢になってつくづくそう思う。他人を振り回さず、生きられる人はどこか共通のところがある。たえず自然を見ている。コンクリートジャングルは生存に弱いことも知っている。


若いときから仕事一筋ではない人も強そうだ。時間の合間に絵を描いたり、書をやってたり、読書タイム(仕事とは無縁の)を持っていたりする。ゴルフ趣味も多いが、これは他人を必要とする。仲間を集めないといけないから最強の人とはいえない。時間の経過とともに実感するのは一人に強い人、つまり他人の中にいても自分を見失わず、声を荒げずゆったりしている人かもしれない。


仕事は他者との関わりで成り立っている世界だから、それがなくなるということは、他者が消えて、残るのは妻であったり子供であったりする。稼ぎがなくなると冷たくなる奥さんも多いし、昼ごはんの準備が増えてイライラを嵩じさせる主婦たち。ウザイ存在と言われる前に、一人で進む世界があるのは最強の生き方だ。他人の評価から離れられる気分の良さは何事にも代えがたい。


ここまでは男について書いたが、実は世の中で一番深刻だと筆者が思うのは、母親の息子へのエゴ独占、自分の思うような息子へ育つよう異常なまでの干渉をしていることだ。外から指摘しないと母親は気づかない。昔から長男信仰というのがあって、過保護という言葉も流行ってたが、見ていて『引きこもり』を促す主原因は、母親が息子を追い出さない(早く出て行き自立しなさい)ことではないかと思うくらいだ。


もちろん労働環境の悪化(派遣やパート労働でひとり暮らしができない収入面)もあるだろうけど、できるだけ追い出さないといけないと思うのだ。本人のために。子供から見れば精神的な(母殺し)をしないと結婚までなかなかいけない。結婚をしても日本の男はマザコン多いというが、イタリアの男性もいつになっても背中にママンがいると米原万理のエセイにあるから世界共通かもしれない。私の母は筆者が実家を出ると寝込んでしまった。3人の子供のうち兄と妹は本州へ、最後まで実家に留まった私が結婚で別な町で住むようになり家を出て母は『空の巣症候群』の様相を呈したのだ。


家族みんな仲良くが理想だというけれど、そうはいかない。人生、目の前にどんな異性が出てくるかわかったものではない。私の母親は大正12年生まれ、大阪で少女時代を贅沢に過ごして大阪空襲で帰道したが、しかし、自分の趣味は宝塚鑑賞と編み物以外何もなかった。一番の関心は長男の成績であったようだ。市場に買い物へ行っても兄自慢をする。それは結局、自分の自慢でもあってほかの主婦から嫌味な奥さんと思われていただろう。


母親と息子(特に文武において優秀な)は依然として『へその緒が切れていない』。それを感じさせる身内の話である。フロイト学者岸田秀さんが四国で映画館を経営している家に生まれて、父親を亡くして跡継ぎとして岸田さんを自分を思うように育てたい母親のエゴにあるときに気づく文章があった(どの本であったか忘れたが)。


いつも横にいた人がいなくなり生まれる空白。仕事を失う定年で生じる時間の空白。子供を事故で失う親。高校・大学入試失敗のとき生まれる虚脱感。どんな人にもある日突然に、空白のときが訪れる。いまは充実していても必ずやってくる。愛があろうがいずれ、ひとりになる。あなたのスケジュール表や手帳が用事で埋まっていくことの面倒くささと所属集団から必要とされているという快感。


野生動物を映像で見ていると、空白のときは昼寝をしていたり、ほかの動物に食われたり、潔い人生だ。ヒグマもある年齢で子供を追い出す。一人前になるのにこんなに時間がかかる生物に人間はなってしまった。それにしても近所で息子を自宅に囲い込む母親の多いこと。お金に困らない家が多いように思うが。何度でもいいから家を追い出さなければいけない。親より素晴らしい人は広い世界にたくさんいるのだから。

  1. 流浪の旅人。

    親の生き方が嫌いで,親子喧嘩が絶えなかった中学時代。早く家を出たくて自ら全寮制の県立高校を入試して家を離れたまでは良かったが,初日の夜からホームシックに掛かったことを思い出した。しばらくして慣れ,彼女ができれば実家には寄り付かなくなった。彼女の母親が自分を娘や息子らと家族同然に扱ってくれたからだが,それも卒業と同時に終わりを告げた。今度は大阪でホームシックに掛かったが重症にはならずに済んだ。ところが,なぜか実家の親を心配するようになった。いつまでも末っ子の僕を子供と思っていた親は,積雪の多い北陸の駅まで長靴持参で迎えに来てくれた。その時初めて親の姿を見つけて,老け込んでしまったことを知った。北海道行きの時にも,親には心配掛けまいと当時の青函連絡船上で手紙を書いて船上のポストに投函した。簡易書簡には「札幌に向かうけど,落ち着き先が決まったら知らせる」とだけ書いた。まるで放浪癖は「父親のコピーのような人生」を送っている自分に,今になって気づく。亡き母親には随分心配やら迷惑掛けたが,好き放題にさせて貰った自分にとって,亡き父親は口数は少なかったが,良き理解者だったのかも知れない。

  2. 長年勤務した会社の倒産で仕事を無くした日から,自立するために大通9丁目に事務所を借りた。仕事が無い訳で空白の日々が続いたが,家賃も駐車場代も,生活費も必要な訳で,最後の手段として生命保険を解約。無け無しの資金でデスクトップPCを2台購入。使い方さえ知らないスキャナーやMOドライブなどと,リース落ちのファックス兼プリンター(複合機)と,電話を引き,FFストーブを入手して準備した。さらに法人を立ち上げるべく書店で一冊の本を買ってきた。登記書類作成のノウハウ本だった。金は無くても時間だけは幾らでもあったので,事務所で数日掛けて登記に必要な書類一式を仕上げ公証役場と法務局で手続きをした。やる気に成れば何とかなるもので,全部で400万ほどで法人を立ち上げた。しばらくの間,仕事は相変わらず無かったが,空白の日々を使って法人格にしたおかげで仕事の可能性も出てきた。誰も助けてくれないし,自分で何とかしなければ成らない立場に立たされれば,何かを見つける事ができるものだ。僕の事務所は,元部下や東京や大阪の元同僚が立ち寄る場所として,やがて来客も増え,一見,無茶な投資のようにも思えたが,結果は現在の自分への道筋をつける事に繋がったようだ。今と成っては,あの空白の時間は余り味わいたく無い。

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