やなせたかしのアンパンマン
熱血メルヘン「怪傑アンパンマン」(フレーベル館)を読んでいたら(文字が多いので読むです)、最後にアンパンマン雑記帳にやなせたかしさんが「アンパンマンは、ある日アンパンを見ていておもいつきました。ぼくはだいたい子供番組のスーパーマンものを見るのが大好きであったのですが、見ていて納得できないのは、スーパーマンと怪獣がやたらに大あばれする、あたりじゅうメチャメチャに踏み荒らしても、被害者に謝りにいったりしない。正義の味方というけれど、本当の正義とはいったい何だろう?そして我々が本当にスーパーマンに助けてもらいたいのは、たとえば失恋して死にそうな時、おなかがすいてたおれそうな時、あるいは旅先でお金がなくなった時、その他いろいろあるわけで、そういう細かいところに気がつく優しいスーパーマンがいてほしいのです。鉄橋を持ち上げたり、全くいそうにもないビニール製の怪獣をなぐりつけてもらってもあんまり心から喜べない」「本当のスーパマンは、ほんのささやかな親切を惜しまないひとだと」(86p、87p)
「大魔神」「ゴジラ」「モスラ」「ガメラ」と私もずいぶん見たけど、こういうやなせたかしさんの視点は自分にはなかった。しかし、考えてみると、これは凄いことを言っているので紹介した次第だ。
「なんのために生きるのか。この時はじめてアンパンマンは自覚した。(自分が死ぬことによって他を生かす。それがぼくの使命なのだ。ぼくは死ねるが、その生命は他者の中で生きる。ぼくは飢えた人を救うのではなく、飢えた人の中にぼくが生きるのだ)」。(同18p)
弟さんが戦中、餓死した経験を踏まえて、アンパンマンが発案されたとも言われる。華やかで権力があり、お金もある人に、いっととき人は集まるけど長くは続かない。サラリーマンや会社経営していると日常茶飯の出来事だ。
「メチャメチャに踏み荒らしても、被害者に謝りにいったりしない」。加害者はどこかで加害を忘れようとし、足を踏まれた人はその痛みを忘れない。逆に、助けてほしいときに助けられた人はその恩を生涯忘れない。それは国境・性別・民族には関係ない。孫がいなければ「アンパンマンの世界」に私は入ることがなかった。


昔の少年
鉄腕アトムは子供の頃、大好きなマンガで見たが何の疑問も憶えなかった。しかしアトムは平和利用と言え原子力なのだった。このアニメを最初にTV上映したのがかつて僕が勤務してた某広告代理店だった。当時は不思議な縁を感じた。手塚先生を説得するのに苦労した裏話や、日本昔ばなしのTVアニメ化で河内先生との折衝の苦労話なども聞いていた。戦隊ものと言われるTV番組の走りもこの会社が始めた。当時は感じなかったが、後々考えると今のゲームにもつながって仮想空間で戦う頭デッカチな子供達が多い現代につなげてしまうきっかけづくりになっていたのでは?と。アメリカ映画すべてとは言えないが、最後はTHE ENDだが途中は破壊が売りのものが多い。現代のゲームもすべてとは言えないが破壊ものが大半だ。子供達の乱暴な言動や行動はゲームを制作する大人達が教えている。僕の家でも4人とも3DSを持って遊んでいるが、時間制限をして使わせている。時々、とんでもない言葉を耳にするたびに注意するが、既に学校や友達の間では常用語に近い言葉づかいが現実のようだ。現代の子供達は昔話を知らないから学校では道徳の教科などで教えているが、子供達を見ていると彼ら、彼女らの将来が心配になる。