貧乏について2話。
孔子とギリシャのエピクロスが,貧乏について書いていたので、比較する意味で取り上げたい。安富歩さん「超訳 論語」173pと岩波文庫 エピクロス 91pから。
・貧乏でいて、それをうらまないでいるのはむずかしい。富んでいて、おごらないでいるのは、それに比べればずっと易しいのだ。(論語)
・貧乏は自然の目的(快)によって測れば、大きな富である。これに反し、限界のない富は、大きな貧乏である。(エピクロス)
論語のほうが、貧富の差がどんどん広がる現実を見ると「そうだよな」と感じるし、若いときから親から小遣いをもらいすぎて人生を棒に振る人たち(どういうわけか男が多い)を見ていて、限界のない富という単語にも魅かれる。さらに、人には生まれ持ったその人が使えるお金の額というものがあり、それを超えると狂う(筆者の説)。これは狂ったようにお金を使う人を見ていて感じたこと。前向きに何か社会のため、事業に投資するという使い方ではなくて、大学生の子供に外車を与えたり、1000万円の時計を買って自慢したりすれば、周りの知人が皆離れていく。お金は自分で稼いだもの、他人からとやかく言われる筋合いはないと言われればそれまで。しかし、バサラの精神というものもあって、思い切って金を使い城をつくり庭を造り、後世に文化を結果として残す生き方もあるから、同じ散財でもずいぶん違うものだ。生きる手段の金が、金そのものが目的になっている時代で、今の世界・資本主義を形作っている。使い道のない金が投資会社へ預けられて、株主の配当を増やすために使われるグローバル資本主義。パソコンで株取引をしている人が身近にいたけど私には縁がない。バブル景気のときも「株をしない輩はサラリーマンにあらず)と言われた。子供の学費と各種ローーン支払いの最中に株へ回す金もないし、父親から「連帯保証をするな、株はやるな」と厳命されていてそれを守っていた。なので貧乏ながら貧乏人と気持ちを同じにして生きられるわけだ。論語のほうに軍配です。

貧乏暇あり金は無し。
貧乏人は金持ちを羨むと同時にひがみ安いですが、貧乏同士なら、「い~や、我が家の方が貧乏も数段上だ」と、むしろ貧乏自慢などしたくなりますね。金持ちも金持ち同士なら自慢合戦になるのでしょうか。いや?負けるのが嫌ですから金持ち同士ではなく貧乏人に自慢したがるのかも知れませんね。しかし貧乏と決めつけられるのも貧乏人のプライドが傷つきますね。
seto
貧乏をゲーム化する、客観化すると面白いソフトができますね。しかも、お金は必ず誰かのために使わないとかえってマイナス評価になるという仕組みを入れます。ビバリーヒルズに住む大金持ちは、ものすごい貧乏感にさいなまれているという文章を読んだことがあります。金持ちは大金持ちに大金持ちは超セレブへ憧れるものらしい。老いるだけなのに。きょうは贅沢なランチをと思って回転すしへ行きました。13皿2600円、大盤ふるまいでした。