2017年10月31日の「北海道の炭鉱事故」(記録として)の中で1971年住友歌志内炭鉱の死者を20名と記したが、当時歌志内に在住の人から30名ですと訂正のメールが入った。4年前のブログであっても読まれているんだと感動した次第だ。日本の財閥の基礎は石炭や銅や金・銀など資源産業に負っている部分が多い。いまでは金融と不動産の企業のようであるが根っこには石炭はじめたくさんの事故による死者の上に成り立っていることを今一度想起したい。

道路建設の次は、黒いダイヤ(石炭)の産出である。九州や常磐もそうだが爆発事故で犠牲になった人も多い。石炭は機関車を牽引するエネルギー、発電所の燃料、家庭の暖房として日本経済を盛り立てた。

『北海道20世紀の事件事故』という本が北海道新聞社から2017年6月に出版された。

サツ回りの現場からからと副題が付いている。年表の中から、炭鉱事故についてピック

アップします。1900年から1985年まで。1982年、北炭夕張新鉱閉山。

1901年(明治34年)夕張炭鉱第一斜抗でガス爆発、19人死亡。

1903年        幌内炭鉱堅抗でガス爆発、12人死亡。

1904年 3月     空知炭鉱神威抗でガス爆発、13人死亡。

      7月    夕張炭鉱第一斜抗でガス爆発、18人死亡。

1905年        夕張炭鉱第二斜抗でガス爆発、36人死亡。 (日露戦争始まる)

1908年        新夕張炭鉱でガス爆発、91人死亡。

1911年 2月    新夕張炭鉱でガス爆発、16人死亡。

      3月     新夕張炭鉱でガス爆発、16人死亡。

1912年(明治45年・大正元年) 4月 夕張炭鉱第二斜抗でガス爆発、269人死亡。

  12月       夕張炭鉱第二斜抗でガス爆発、216人死亡。(英国船タイタニック号沈没)

1913年        夕張炭鉱で電動機から発火、坑道を密閉して鉱夫53人死亡。

1914年 10月   夕張炭鉱第一斜抗でガス 爆発、16人死亡。

11月    夕張炭鉱若鍋抗でガス爆発、422人死亡。 (12月福岡県方城炭鉱でガス爆発、687人死亡)

1917年       上歌志内炭鉱でガス爆発、12人死亡。

1918年       夕張炭鉱でガス爆発、12人死亡。     (シベリア出兵)

1920人 1月    新夕張炭鉱でガス爆発、36人死亡。

      2月     空知炭鉱神威抗でガス爆発、27人死亡。

      6月    夕張炭鉱北上抗でガス爆発、209人死亡。

1923年9月1日  関東大震災 死者行方不明14万人。

1924年       上歌志内抗でガス爆発、76人死亡。

1927年       三菱美唄炭鉱堅抗でガス爆発、39人死亡。

1929年       上歌志内炭鉱でガス爆発、70人死亡。(ニューヨーク株式大暴落・世界大不     況)

1931年  9月18日 (満州事変)

1932年       空知炭鉱舞鶴抗でガス爆発、57人死亡。

1935年       勇別茂尻炭鉱でガス爆発、95人死亡。

1938年      夕張炭鉱天竜抗でガス爆発、161人死亡。

1940年      真谷地炭鉱でガス爆発、51人死亡。(日独伊三国同盟)

1941年 3月   三菱美唄炭鉱でガス爆発、177人死亡。

      4月   弥生炭鉱でガス爆発、30人死亡。

1942年      三井砂川炭鉱でガス爆発、42人死亡。(ミッドウェー海戦)

1944年      三菱美唄炭鉱堅抗でガス爆発、109人死亡。(サイパン島守備隊3万人全滅)

1946年      雨竜炭鉱で炭じん爆発、16人死亡。(日本国憲法発布・5月3日)

1954年      太平洋炭鉱でガス爆発、死者39人。

1955年      勇別茂尻抗でガス爆発、60人死亡。

1959年  2月  住友歌志内抗でガス爆発、14人死亡。

       5月  歌志内住友赤平抗でガス突出、5人中毒死。

1960年  1月  歌志内北空知炭鉱でガス爆発、5人死亡。

       12月  歌志内北空知鉱で崩落事故、4人死亡。

1965年      北炭夕張鉱でガス爆発、62人死亡。

1966年  3月  歌志内空知炭鉱でガス爆発、12人死亡。

      11月  三笠市の住友奔別鉱でガス爆発、16人死亡。

1968年 1月  美唄炭鉱でガス爆発、16人死亡。

       7月   北炭夕張平和鉱でガス爆発、31人閉じ込め、遺体で9人搬入、残りは構内を水没させる。

      9月   北炭夕張鉱で崩落事故、8人死亡。

1969年 4月   赤平市茂尻鉱でガス爆発、19人死亡。

      5月   歌志内鉱でガス突出事故、17人死亡。

1970年 12月 三井砂川鉱でガス爆発、19人死亡。(日航機よど号ハイジャック事件・三島由紀夫自決)

1971年     住友歌志内鉱でガス突出事故、30人死亡。

1972年     石狩炭鉱でガス爆発、31人死亡。(沖縄復帰、横井庄一保護・連合赤軍軽井沢で交戦)

1974年    三井砂川鉱でガス爆発、15人死亡。

1975年    北炭幌内鉱でガス爆発、11人死亡、13人の行方不明いたが構内を水没させる。

1977年    三井芦別鉱で第二抗でガス爆発、25人死亡。(有珠山噴火)

1979年    三菱大夕張鉱でガス爆発、16人死亡。

1981年    北炭夕張新抗でガス突出事故、死者・行方不明93人。戦後、北海道で最大の大惨事。

1982年    北炭夕張新鉱、交渉妥結で閉山。

1985年    三菱大夕張鉱でガス爆発、62人死亡。(日航ジャンボ機、群馬県の山中に墜落520人死亡、4人生存)

  1. 夕張出身のカメラマンの友人が居て、夕張には何度か尋ねた事がありました。父親も炭鉱マンだったのか住まいは社宅のような炭住でしたが、平屋の長屋式ではなく、鉄筋コンクリート造りのマンション風でした。彼のオバサンも札幌でマネキン紹介所を経営していて仕事でもお世話になりました。夕張の人たちに共通するのは活発で大担で気前の良いところでした。それも鉱山や炭鉱町特有の共通する雰囲気でした。例えば高価な夕張メロンなどもどっさり頂いたりと、兎に角気前が良かったです。衰退前の炭鉱町は活気に満ち溢れていた事が想像できます。そんな命がけの炭鉱マンたちに支えられていた町ですから家族も覚悟を決めていたからかキップが良かったです。しょっちゅう起きていたガス爆発事故で多くの犠牲者が出て居たわけですから本来なら悲しみに打ちひしがれていて当然ですが、それでも生きるために直ぐ立ち直り、家族の大黒柱を亡くした家庭でも隣近所同士で助け合ったり、札幌に出て商売を始めたりと行動的な人も多かったですね。「ゼロ・カーボン」などと世界は石炭や石油離れに大きく舵を取り始めていますが、その前に、これまでお世話になった生活のためのエネルギー「石炭」の採掘に命を懸けて下さった多くの炭鉱マンの方々に改めて心から感謝したいですね。

    • 私の周りは産炭地から引っ越しをしえきた自営業者や炭鉱会社の事務職員が多いです。炭鉱では「朋子制度」が機能していて、仲間が事故に遭っても残りの同僚の家族が面倒を見る制度がありました。集団で札幌に移住してきた人たちもいます。色濃く、助け合う制度や習慣は残していますよ。夕張、歌志内、芦別、赤平、砂川、三笠などたくさんありました。常磐や筑豊もそうでした。イギリスだって少年・少女が石炭堀をしていたんですから。もう世界中の資源採掘は、そういう現場の危険と背中合わせで、命の保証のまい仕事をしています。スマホやIT暮らしを支えるレアメタルの争奪戦争がありますが、安い給与と過酷な労働現場で働いていることには変わり有りません。地面にスコップで穴を30センチ開けるのだってもう大変ですよ。塀づくりのアルバイトをしたことがありますから。金を出して「これをやれ!」という自分は汗水流さず命令する(丸投げする)ことは子供でもできます。

  2. 高校生の頃知り合った九州の女性が居ました。私がその頃過ごしたのは北陸の織物の町で、彼女は集団就職で九州からやって来たのだそうです。話を聞くと筑豊炭鉱の町出身だと言っていました。言葉は九州弁で何かと噛み合いませんでしたが、彼女の勤務先が私のアルバイト先でもあった関係で、共に親元を離れて寮生活をしていた関係もあって、私に何かと親切にしてくれたものです。九州の女性は積極的で情が深いとは聞いていましたが、正にその通りでした。しかし私も学生の分際ですから、お付き合いは話をする程度で程ほどにして終わりました。九州でも炭鉱での事故は多発していた訳ですが、そんな事故の話は何一つ話してくれませんでした。その頃は九州の炭鉱町から毎年のように若い女性たちが集団就職で大勢やって来ました。その頃から炭鉱の町は、北海道も含めて衰退の一途となりましたね。

    • 九州の福岡県に田川市があります。ここに炭鉱の絵を描いた人の個人美術館があります。田辺・・・・?かな。ところが知人の損保会社役員から田川ナンバーの車は要注意と言われていました。
      わざとぶつける事故を起こして保険搾取する人が多いんだと。昔、炭鉱で栄えて、いまは落ちぶれて、他都市へいけなかった人が事故偽装をする、わざとぶつかる人が多いんだと。なぜそうなるのか?繁栄から取り残された恨みかそうさせているような気もします。九州からの集団就職は繊維、車、紡績など北陸・関西・名古屋へ行く中高校生徒多かったです。札幌でも産炭地からたくさん就職に来てます。

  3. 大規模なガス爆発事故の鎮静化に「水没」は絶対必要なんですか?理解できませんがそんな時には絶対に助け出せないものなんですか?それにしても「構内水没」は残酷ですね。人命より大切なものを守るためですか?それって?何ですか?そんな時の救助方法など初めっから想定外だったんですか?。今でも多くの魂が塞がれた坑道に残されている訳ですね。お盆も近いですが、戦没者の慰霊祭などは(形だけでも)存在しますが、国の犠牲になった炭鉱マンたちの慰霊祭は聞きませんね?。個々個人に委ねられっ放しなのでしょうか?

    • 夕張の場合、垂直に下に行き、それから横道を掘るので水没させて穴に入る事故を防ぐためですね。ドイツは戦争や資源枯渇の場合を想定していつでも再開できるように閉山しています。日本も水没させる必要は締め方さえしっかりしていれば大丈夫だと思いますよ。炭鉱マンノための慰霊祭、開くべきですね。道路もね。囚人慰霊祭もね。

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