何歳になっても自己改革できるのはなかなかのこと(友人のメールから)
乗れなかった飛行機に10年ぶりに乗れて、それを知人に報告したら「何歳になっても自己改革できるのはなかなかのこと」と返信があって嬉しくなった。「飛行機でいちいちパニック云々はレベルの低い悩みだ!」と自分に言い聞かせて、気合で乗ったら乗れた。もっと早くこの気合が出ていたら良かったのにと思うが仕方ない。WINDOWS95 が職場に導入されたとき、ワープロも打てないたくさんの営業マンとリコーの支社へ勉強に行ったが、インストラクターから笑われた。キーボードの並びがわからず,打つのが遅いこと・間違うこと・小さな文字が打てない・文字変換ができない、そういう日々が続いた。しかし、あのとき「おれ、この世界に合わないからリタイヤする」と言った人が何人かいた。私は自分で作りたい企画書がいくつもあって必死で覚えた。それが今日のブログ書きにもつながっているので、何が得するのかわかったものではない。腹を決めるというか逃げるというか、エイやっと飛び込むかの違いでしかないと思う。能力においてそんなに差があるとも思えない。初めから諦めている人、いやいやついていく人、前向きにダッシュする人。時間の経過とともにそれが能力の差として外に出てしまう。パソコンをできるできないが、待遇(給与)の査定にはカウントされない企業であったから、生き延びれた時代であった。
その後、企業内でも意識改革を経営者が叫ぶけれど,経営者本人の意識改革もされぬままなら、叫ぶ前より後退すると思って間違いはない。それをするための会議の開催で無駄な時間を使う。そのための飲み会までセットされるから叶わない。意識改革は、自分の行動が変わらないと何もしたことにならない。肩書と給与などの既得権をまずは確保しながら発言する人たちは、もう足元をすべての人に見られている。部長が突然、毎日、誰よりも早く来てトイレ掃除を始めるだけでも職場は変わる。そういうことなんだ。意を決して行動を変えられたら、自己改革の緒についたといえる。
職場だけではなくて家庭においても、夫婦の関係でも、近所付き合いでも自己改革の営みは続く。
アドマン。
パソコンの逸話は沢山ありますね。世の中にPCが出現して間もなく200万円も掛けて知人のデザイナーが揃えたのは良いのですが、当時のブラウン管モニターもプリンターも使えないシロモノで殆ど事務職しか使わなかったですね。彼もあきらめて無償で私に譲ってくれたのは良いのですが、私も制作作業には使えず、殆どトランプゲームくらいしか使いませんでした。我が家のリビングで邪魔者扱いされていたのを隣の家に遊びに来ていた息子さんが聞きつけて欲しいと言うのであげました。何でも室蘭工大の教授だと言うのです。彼は得意ジャンルらしく使いこなしたみたいです。そんな頃、今度は知り合いのクリエーターがマックを入れたと言うので見に行きました。なんでも東京から90万円で買ったとか。当時はそれでも安い方だと言われていました。更に知人のフリー・デザイナーはマックは絶対使わないと言い切って、相変わらずの手作業を貫きました。私は広告代理店に勤めていましたが、会社から30万円ほどでB5判程度の小さなノートPCとCDドライブを買わされました。それを持ってお盆休みに東京へ研修に行きました。しかし文字打ちの仕事なら未だしもデザイン制作には程遠いいものでしたから、自分でメモリーを買って増設したりもしましたが、やはり使えませんでした。そうこうして居る内に会社の倒産劇に巻き込まれ、やむなく大通りに事務所を借りて自立しました。その時タワー式のウインドウズ2セットを買い揃え1セットは自宅、もう1セットは事務所に置きました。仕事も殆ど無く毎日パソコンで遊んでいました。そんな時知人のデザイナーから古い型の平置きベッドタイプのマックを1万円で譲り受け、毎日オフイスに通い暇に任せて適当にいじっていました。周辺機器のスキャナーもCDドライブやMOドライブもプリンターも初めて見る物でしたが自分で配線してウインドウズとマックPCでの遊びの毎日でした。1台のモニターでウインドウズとマックへの切り替えを出来るようにして使いました。暇に任せて旧知の友とのやり取りや、全く知らない仲間との掲示板でのやり取りなどもしました。そんな無駄と思えた期間が何故か自然とPCを覚え、身についた貴重な体験期間でした。或る日、試しに印刷データを試作して下版したところ問題なく印刷できたことをきっかけに、PCでの作業に自信が持てるようになったと言う訳です。つまり会社の倒産劇が無かったら、毎日の営業に追われて、PCにも没頭も出来なかったのではないかと思います。時には暇の大切さを思い知った訳です。全くの自己流で身に着けたPC環境でしたが、その頃には機器も安価になっていて助かりました。
seto
PCが入ってから、広告代理店やデザイン事務所が大変動を受けてましたね。MAC専門の営業会社も立ち上がり、売り込みをしてました。機器よりソフトが高いこと。支払いに困っていたことを覚えています。使えるまでインストラクターもやってきてました。新聞社のデザイン室はMACで経費に任せて次々,新しいソフトを買いまくってました。私の会社はWINDOUSでしたね。というより外注ばかりしてました。MAC派はウィンドウズを小ばかにしてました。おれたち最先端だとね。パソコンの外付けやソフトについては詳しくないのでわかりません。ただ、指で一本一本抑えるだけの情けないサラリーマンでしたよ。それでもしないよりはまし。そのときの一つ一つが現在のブログ書きにつながってるわけで、することに無駄がないとわかりました。これも閑がないと向かえない世界ですね。
昔の少年。
妻は結婚前に或る化粧品販社で秘書をしていた関係で邦文タイプが日常業務でした。1級の腕前でしたから結婚して退職後も我が家でタイプの仕事をしていました。当時はワープロも無かったので公文書は全てかー盆を挟んだ5枚ほどのタイプ打ちの書類でした。丘珠空港も近かったせいか国への申請書類などの依頼が多かったです。私は多忙な妻に企画書などを頼みましたが一銭にもならないタダ仕事ですから多忙な時は断られ、『それなら自分でやる』とタイプに向かったのですが、文字盤の活字は逆さでしかも逆文字でしたからたった一行打つのに30分も掛かってしまい、ついに諦めました。タイプでの収入は家計を助けてくれましたがワープロの誕生で仕事は無くなり、私もワープロを買って自分で企画書を打つようになりました。そして大袈裟な邦文タイプも沢山の重たい文字盤も全て大型ごみに出しました。プリンター不要のワープロも便利でしたがPCの台頭にいつしか消えて行きました。今や、誰しもタイピストの時代ですね。
seto
邦文タイプですね、カーボンを挟んでいるやつですね。実は私の母が日本通運岩内支店でタイピストをしていました。大阪から帰ってきて就いた仕事でした。淀屋橋の学校で習っていたんですね。妹が商業高校でタイピスト部に所属してコンテストに出てました。タイピストは我が家の女性史を語れます。あの音がいいですね、カチャカチャです。事務の仕事をしている、総務の仕事をしている、社内に活気がでますね。「いまや、誰しもタイピストの時代」名文句です、いつか使わせてもらいます。