ギリシャの哲学者エピクロス(BC342~BC271)は、最高の精神的な快楽をアタラクシア(心の平静)に置いた。「平静な心境の人は、自分自身にたいしても他人にたいしても、煩い(わずらい)をもたない」死に関してもエピクロスの次のような言葉がある。「人間はすべてのことにたいしては、損なわれることのない安全を確保することが可能である。しかし、死に関してはわれわれ人間はすべて、防壁のない都市に住んでいる。人はだれも、たったいま生まれたばかりであるかのように、この世から去ってゆく」。「肉体の要求は,飢えないこと、渇かないこと、寒くないことである」富に関してもこう言う「貧乏は自然の目的(快)によって測れば、大きな富である。これに反し、限界のない富は、大きな貧乏である。十分にあってもわずかしかないと思う人にとっては、なにものも十分ではない」「獣にふさわしい仕事からは、たくさんの富がつみかさねられるが、みじめな生活が結果する」

そして自己充足の最大の果実は自由である正義の最大の果実は、心境の平静である。

エピクロスのいう「自己充足」って具体的にどういうことなんだろうか?こういうたとえが出ていた。「知者は、困窮に身を落としたときでも、他人からわけてもらうよりも、むしろ自分のものを他人に分け与えるすべを心得ている。これほどにも彼の見出した自己充足の宝庫はすばらしい」。エピクロスは唯物論j者ではあるが質素な暮らしを旨とした。現代にエピクロスが蘇ったら、口をあんぐりしてどういう分析をいたすかですね。大都市の消費社会の乱雑さ・電気紙芝居から流れる音楽と映像に心臓麻痺を起こすかもしれません。都市で暮らして自己充足を達成するための手法は「引きこもり」でしょうね。亡くなった坂本龍一のピアノを「エナジー」から聞いてベッドに入るのもいいですが、70歳を過ぎると「自己充足は、あらゆる富のうち最大のものである」「自己充足の最大のものは自由である」「死に関してわれわれ人間はすべて、防壁のない都市に住んでいる」は至言です。立花隆「死はこわくない」(文春)でエピクロスを引用していました。「あなたが死を恐れるときは死はまだ来ていない。死が本当に来たとき、あなたはそこにいない。だから死は怖れるに当たらない」(60p)

  1. 今日は家族葬の会場へ知人を送って行く事にすいました。何故なら故人は知人の姉のご主人であり、共通の知人でもあったからです。分からないもので、故人は一週間前まで自覚症状も無いままに、突然体調不良を訴え病院に行くと腎臓ガンの診断でしかも取り返しがつかないほどだったらしいのです。即、入院し、更に重症で転院する矢先に亡くなりました。奥様は住んでいる賃貸マンションの管理人を、亡くなったご主人は介護施設での仕事で、お互い80歳過ぎてもなっても、端から見れば元気そうでした。しかも知人は弟の娘さんの結婚式出席の準備中だったので、余りにも両極端な慶弔事に戸惑っていました。コロナ禍以降、葬儀も形を変え、少人数で集い語り合う形式になっているようですが、身近に、人間の命のはかなさを実感した次第です。ただ今回、救われるのは珍しく夫婦円満な人生の方だった事でしょうか。

    • そうでしたか。搬送する病院へ到着する前に逝かれたとのこと。夫婦仲も良くて幸せな老後を送っていたのに残念ですね。これから家族葬ですね。穏やかな人格らしいので町内の人も参列されると思います。(合掌)

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