俺たちの脳みそは原始人の時代からほとんど進歩していない(ビートたけし)
北野武『全思考北野武』(幻冬舎161p)。ネアンデルター人だろうと現代に来てパソコンさくさく使える、スマホ使えるくらいの頭は持っているので、現代人はそんなに賢くもないよと遠回しに言っている。『文明の利器なんてものは、大半の人間にとっては、ただの魔法の箱、理解不能のブラックボックスだ。俺たちの頭の中身は、何千年も昔の人とまったく変わっていない。人類の文明を発達させたのは、ごく一握りの天才なのだ』。ブログを書いているデスクトップパソコンの中身はまだ開けたことはないし、自家用車にしても車の仕組みについてはからっきしだめ。テレビにしても映る仕組みについては無知に等しい。ただ使ってるだけ。故障したら直せない。ネアンデルタール人が獣を屠るとき、石矢の先から鋭さが消えたら、磨いたり、新しい矢をつくれる。何でも箱の中に入れ、見えない世界をつくることで秘密を囲われているようだ。(霞が関官僚みたいだ)CDでもどうして音が出てくるのか、DVDがどうして映像と音が再生されるのか。スマホや携帯に何個の部品があって、その機能がどう果たされているのか。なぜ、音が聞こえるのか。正確に答えられる人がどのくらいいるのか?ネアンデルタール人と現代人の脳は働き方において変わらないのではないだろうか。新型コロナウィルスについても、免疫の仕組みについて借りてきて読んでいるが難しい。そもそもウィルスがどうして出てきたのか?人類の歴史とともに古く「疫病の世界史が人間の歴史をつくる」ようにも見える。ウィルスは進化の原則からいくと生命の最小単位ウィルスが多細胞生物へ進んだとする説(今はやりのRNAワールド)と、元々、生物の体(細胞)にあったウィルスが外に飛び出したとする説がある。外に飛び出したので故郷に帰ってきたがる。細胞からの飛び出し説は世界の免疫学者多田富雄さん・日沼頼雄夫さんたちもその説だ(対談ウィルスの意味論)。細胞から飛び出してはみたものの、故郷へ帰りたくなり、また人間の細胞に感染しにくる、パンデミックは人の細胞に回帰するウィルスの巨大な物語だともいえる。ただ、ウィルス感染の仕組みについて解明され(?)、ワクチンが打たれはじめてはきたが、コロナのおかげでこれまで見えなかった人種差別や金持ちがこっそりワクチンを購入し、金の力で生き延びようとする富者の群れ(まるで芥川龍之介のクモの糸だ)を見せてくれる。
アドマン。
遠い昔のヨーロッパで大流行したコレラを対岸の火事と思って居た我々に、いきなり襲って来た新型コロナの大流行。世界的感染拡大におののき右往左往しました。身近な家族にも3名が感染。恐怖を覚えたものです。ワクチン接種などもあり鎮静化したと思っているのも束の間、今度は変異株への恐怖が叫ばれています。科学が医学が如何に近代化されたと言え、原始から生き延びているウイルスの前には全く無力さを露呈しました。今回のウイルスも、あらゆる感染症も、或る動物由来とされていますが、我々人間も他の動物たちに害を及ぼす存在でもあるのですから、一概に動物個体を決めつける訳にも行きませんね。今回のコロナ禍は人間社会全体を良くも悪くも一変したのは事実ですね。
seto
疫病とともに人類史は歩んできました。加えて戦争ですね。ペストが流行ったとき農民は耕作地を放棄したり、都市に住む人は郊外に逃げたりしました。NYでコロナ流行したとき金持ちは郊外の広々とした戸建てに逃げました。大半は逃げるわけにはいかず、自宅に引きこもりでしたね。ほかの生物に寄生しないと生きられないのがウイxルスなので、ずっと彼らと共生しないといけません。私たちの体には膨大な数のウイxルスたちが住んで、生命を維持したり、食べ物の章かを助けてくれています。
坊主の孫。
便利すぎる世の中は冷静に考えれば恐怖ですね。思考能力がいつしか奪われ、当たり前に過ごしている日常が、或る日原始のような環境に戻ったとしたら、一体どれだけの人類が生き延びるでしょうね。たった数日のブラックアウトでさえ右往左往したのですから。しかし最悪の場合でも、そんな場になっても、今までの便利さを求め続ける我々ですから救えませんね。電気が無ければ、燃料が無ければ、クルマが無ければ、食料が無ければ、暖かい住まいや衣服が無ければ、お金が無ければ生きられなくなってしまいました。防災グッズを開発する前に、便利さが何も無い体験も必要かも知れませんね。
seto
自分の肉体を鍛えるのがまず大事でしょうが、子どもや年寄り、病人には無理です。手回しランタンあると便利ですね。朝になると太陽があるので照明にはなりますが、夜が怖いです。コンビニでは棚が何もなくなりましたから、あれを見て恐怖でぞっとしたことを覚えてます。団地人口が1万少しの町ですよ。乾電池もすぐになくなりました。ガスボンベもなくなりました。近所に薪を積んでる家がありましたね、賢い。幸い、水道が通じていて水が確保されたことが大きいです。風呂も電気がないと焚けませんし、ストーブも点灯できず、昔ながらのポット式ストーブでしたね。ガソリンある限り、ご主人は食料探しに奔走。原始時代の食料採取行為が現代も生きています。現代は原始時代と同じと考えて生きるのが間違いないですよ。テレビなくスマホなくパソコンもなくですね。それでも楽しく生きられる工夫を日々するとうつ病も激減するし、イジメも減り、軽犯罪も減ると思いますね。デジタルは仮の姿だと思えばいい。