自立・自立・自立とすでに既得権をたっぷり吸った人たちが、相手の個別の事情にお構いなく「人に頼ってはダメなんだよ。自分の努力と勉強と営業で他人に頼らず生きていかなと、これからの厳しい時代は生き延びれないんだよ」と偉そうに言う政治家や官僚や上場企業に在職しそこそこの地位にいる人たちの決め台詞をよく聞く。政治家や官僚にしても大学の教師にしてもたくさんの税金を食い散らかして「人に頼ってはダメ」と傍観者の立場で言いながら国民の払う税金で暮らしを立てて、(中にはピンはねする輩ある)全然、自立しているとは言い難い。きょうのブログは「助けて」といえる他人を増やそうという話だ。自立という言葉で若者を含めてどうも横の助け合いが分断化されて、密閉空間に閉じ込められてしまった気がする(引きこもりを大量に発生させてる要因は、この自立と言うイデオロギーの蔓延に比例すると私は思っている)。私はこの変化がウィンドウズ95が会社に導入されて、社員同士の会話が激減し、画面とニラメッコして「それが仕事」の世界になって、引きこもりやうつ病が増えてきたと感じている。そこにあるのは他者の不在や排除の一時的な空虚だ。それはそれで居心地がいいだろうが、突然の社会の侵入に耐えられるだろうか?電話を取ったり、初めて会う人と会話できない人(何を話していいのやら?)も多い。仕事オンリーの会話は社会(外)では相手を追いつめてしまうことが多いことを覚えておこう。下手したら自慢話にしか聞こえないこともあるからむつかしい。そういう場合、どうするか、電話なら代わってもらうでいいし、誰か来たらもう一人同席してもらい助けを求める。仕事過剰ならギブアップと大きな声を出そう。「誰か助けてくれよ!」と叫ぶのもいい。きっと変化が出てくるから。お店が倒産して失業したり、つらい時代に入っている。そんなとき「助けてくれ」と言える友人の有無が次に生きていくエネルギーになる。自立なんて、そもそもどんな人間も厳密にいうとできないのだ。誰かに依存してしか生きられない。自立イデオロギーをいつ吹き込まれてしまったのか?学校教育からか?   さっぽろ雪祭り 撮影今井昇

  1. 自分では自立していると思って居ても、結局は知らず知らず他人の誰かに助けられているものですね。仕事などは更にはっきりしていて得意先に助けられ、此方も多少なりとも得意先を助けていたり、家族間ではなおハッキリして居ますね。それ以外では助けあえる関係は、そう多くは無いでしょうが、他人と信頼関係が築ける関係にまでなれば最高ですね。信頼しあえる関係はともすれば身近なところでと考えがちですが、意外と全くの他人同士で信頼しあえれば、それに勝るものはありません。趣味を通じてとか、慈善事業やボランティアを通じてとか他にも外部との繋がりでお互いに助け合える関係も生まれるかも知れませんね。最近は特に結婚をしない世代が増えていますから、一人暮らしも多くなっていますね。最初は高齢化の両親の介護などで大変でしょうが、それも落ち着き、今度は自分自身も高齢化が進み、さらには孤独な独り暮らしが増えるわけです。その時には正にお互いで頼れる他人が周りにいてくれれば、どんなに助かる事か知れませんね。他人には分からないお互いの相性ですから、そんな人が居れば、そして自分自身も認められれば心の安らぎを感じられるでしょう。助け合い=援け愛ですね。

    • 個人個人・自立だとか自助だとか、結果的に個人を孤立や孤独に追い込む、竹中・小泉時代の自由主義の弊害がまだ社会に漂ってます。ある程度の経済基盤を持ってしまった人間ほど、他人に冷たい輩が多いですね。大企業であったり、正職員の公務員で会ったりする人ほど、オマエが悪いからそうなったと助けない人が多いかも。貧乏人に暖かいのは貧乏人ですね。2世3世議員の冷たさ(国民の暮らしを見ない、見たくない日常)を見ていると、2世や3世は政治家になれない法改正が必要かもしれません。苦しい人はどんどん生活保護を申請して少しでも日々の暮らしが楽になるようしたほうがいいですね。高給な生活保護を受けている政治家たちもいるわけですからね。さらに脱税と泥棒をしている最悪な非国民です。

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