個人の心理は存在しない。
いっとき「自分探しが流行った」。サッカーの中田英寿も自分探しで世界を放浪・帰国したが、もともと菓子メーカー東ハトの役員なのだから、売れるお菓子を考えたりすれば済む話で、ずいぶん恵まれた環境なのになぜ自虐的な苦労をするのか。
自分なんてないんだということに、なぜ早くから教育で教えていかないんだろうか?欧米の子育てを見てて、無理やり自分を作らせるしつけ(寝室を別にする)・無理やり物事を自己責任で選択させる生き方・無理やり本人の意思を確かめもせず洗礼させて日曜学校で聖書の説教で洗脳させているだけの話で、赤ん坊や子供にとって必ずしも素晴らしい育てられ方だとも思わない。それは単に現在の欧米社会へ適応させるための処方でしかない。
自分探しの特徴は、今の自分は本当の自分ではない、私にはもっと特別な能力があり、もっと自分は社会から認めれて、いまの給与の何倍ももらえる価値があるんだと。そのために、私は自分に適した職業を探している。何かないか?どこかないか?と悶えている。それを受け入れない現実社会を呪ってる人も多い。周りはみんな馬鹿なんだとさえ思っている。私の周りに何人もいる。そうして時間だけが経過して老いて行く。
いつからこんなバカな教育を文部省はするようになったか、彼ら文部官僚の罪は重い。若者を自分・自分と駆り立てて。万死に値する省庁かもしれない。親の実家の隣に娘さんがいて、「自分探しにオーストラリア」へ留学した。そして帰国して、20年間引きこもっている。私の甥もロンドン・北京と留学行くも適応できず帰国して17年間ひきこもっている。
この道を選択する人に多い特徴は、今・この場所を楽しく生きられない男女が多い。そのために親は大枚をはたいて仕送りだ。学びに行くと言えば親は「海外で勉強に行くのだから、スキルアップして帰国し、履歴に箔をつけ、就職のときに有利に働くはずだ」と計算して、金策に走る(元々金持ちも多いが)。そういう人も例外的にいるだろうけどね。帰国子女はほとんどお父さんの仕事の関係で外国で暮らさざる負えない人たちが圧倒的に多い。あの時代、東南アジアへ行った人間はどういうわけか元気だ。インドで風土病に罹り死線を彷徨った知人もいたが、生きることにどん欲だ。インド哲学を履修していたけど。
表題の意味だけど、心理も関係性で生じるので「自分だけの心理」はあり得ない。なかなか現代、理解されにくいワンフレーズだ。ここから類推すると、個人って何なの?という問いまでいく。これも関係性の概念だということはいうまでもない。個人の心理は横に誰かの心理と対になってる。亡くなった父の心境が突然、わかってしまうこともある。私の言葉はわたしのことばではない。


昔、昔の少年
今更だが、未だに僕はなぜ此処にいるのか判らない。流れ流されてきた事は確かだが、急流下りのラフティングにも似ていて岩にぶつからないよう頼りない自力で必死でパドルを操りはするものの岩をかわせたり、かわせずぶつかったり、大きな落差の滝から叩き落とされたりしながらもモガき抵抗しながらホッとする穏やかな流れにたどり着いたり。しかしこの先の事は分からない。「人生はリハーサルの無いぶっつけ本番」。吉と出るか?凶と出るか?その中間か?北海道にきて数年後、或る広告代理店の北海道支店に就職のため、銀座にある本部の真っ赤な絨毯の本部長室で本部長面接に上京。「君は東京で生まれ福井で育ち大阪で暮らし、今なぜ身よりも無い北海道に居るのか?」の問いに「何となく北海道が好きだからです」と。「何となく」などと答えた奴は後にも先にも居なかったらしく本部総務で話題にされていた。例えば理由を後付けでカッコよく答える事も出来たのだろうが、当時は口下手も手伝って成り行きでそう言ってしまった。幸い面接は通って採用されたが、今もなぜ此処にいる事になったのか自問自答する事がある。若い時なら先が見えなくても好奇心で前に進むが、パドルを操る腕力も年々衰えてきているから、この先の岩を僅かな自力でどの様にかわして行くか心配は尽きない。