『幸せそうな人が見えないですね』(某女性)

『そんなに暮らしに困ってもいないのに幸せそうな人が見えないですね』と会社の女性が帰り際に言った。彼女自身は毎日が楽しくてしょうがないのかもしれない。その内容を今度聞いてみたくなるが、『なるほど。そのコメント、ブログに使わせてもらいますね』と言って帰宅した筆者。


帰宅電車に乗り、乗客の顔を気づかれないように観察を続けてみる。半分はスマホでメールとゲームをしている。水曜日の電車で一番疲れるかもしれないサラリーマンやOL・学生。6時の電車に乗れるサラリーマンは少ないから赤ら顔はもちろんいない。『幸せそうな人』かそうではないかは、何となく経験上、顔や表情に出ているもの。余裕が顔に出ている人は幸せそうで得をする道を歩みそうだ。目の下に隈が見えたり、骨ばって緊張や苦悶が時折見えるのは、現在、辛い難題を抱えているとか、私でなくてもわかりやすい。


『しかし、顔で幸福かどうか何がわかる?』と言う人も多いと思う。ヒゲソリで鏡に向うときに写る自分の顔が冴えないとき、『きょうは行きたくない。数字の定例会議がある。まだ未集金のスポンサーがあって早めに処理をしないといけない。月末までに利益がまだ個人で70万円足りない、部として300万円足りない。どう繰り抜けるか』とか考えると暗くなる。『そもそも初めから無理な数字で、ケセラセラ。来月になれば、また最初からスタートだ』と思えば少し気が楽になったのを思い出す。


しかし、これでは数字が良ければ幸福で(これは給与についても言える)、悪ければ不幸なのかという問いでもある。多いに越したことはないが、一部上場に勤めるたくさんの不幸感強い人を見るとそうでもない。出世できず不満を持ってる人も多いが、十分、いまのあなたの能力以上の地位にいてもまだ不満を持って不幸感を漂わせている。子供が好きでも子供ができない夫婦も多い。子供がいても母親の思うような成績を子供が上げられず、目指す学校へ入れないことに歯がゆさを感じる。とにかく他人と比べながらの人生を、それもその上を行くよう希望する。そこに子供の幸せが、それ以上に子供によって、自分のエゴが満足させられる快感が欲しい母親だらけである。


そこで、あらためて幸福って何かと考えると、そもそも幸福を考えないことで生きられることではないか?人生論で『幸福』というタイトルの本煮が足が向かない人が幸福をすでに体現しているのではと思う。営業マンの数字にしても他人からもらって数字を膨らますよりも、こつこつと自分の力で数字を積み上げていくほうが幸福への近道になるように思えるがどうだろうか?人間関係もこつこつ積み上げである。しかし、こつこつ生きていても突然、津波や地震や空から空爆で、また子供が突然事故に遭遇するわけでもあるから、普遍な幸福はゼロが真実でもあろうと思う。『今を生きるしかない』。深い穴を掘りながら。同じ時間に生きている私たち。毎日、生死をさまよう人生を送っているたくさんの市民を思うと売上げの話はなんだかどうでもいいようにも思えてもくる。