サッカー大会のお祭りが始まり、ローマ帝国時代のコロセウムの野獣と奴隷の戦い、奴隷と奴隷(金銭の奴隷)に狂喜するローマ市民を思い出してしまうのは私だけだろうか?世界中のテレビ局に放送権を買ってもらうビジネス、協賛のランクで様々なFIFAから特権を与えられて、宣伝効果を期待するが、大会が終わればただの使い捨て。宣伝費を使えるくらいならその分、商品の売値を下げたほうがよほどいい。スポーツは平和の祭典ではなくて、擬似戦争。ゴールキーパー以外手を使えないことでより残酷なスポーツに変貌する。
スポーツが政治や戦争と切り離されたことはなくて、スポーツ記者が書くきれいごとではない。スポーツを利用して一儲けをしようとする人、スポーツで高校や大学へ試験を受けないで入れる道があったりする。近代人には利用価値がとても高い。なぜなんだろうか?筆者みたいな怠け者から言わせれば、何を好んでおのれを追いつめて走ったり、跳んだり、蹴ったり、叩いたり、くるくる回ったりするのだろうか?
ともかく、きょうのテーマは同じ空間(地上)と時間(今)のなかで、人間の暮らしや生死や誕生や天然災害や事故で、偶然の中で私たちは毎日生きているという確信に満ちた感慨に筆者は浸っていることだ。言い換えると、ラッキーやアンラッキーが人生に占める割合が、とんでもなく大きなファクターだということ。原因があって結果があるという世界ではなくて、原因がなくても起きることは起きる。禅問答のようなだけど、因果応報ではなく(応報)だけの世界ではないかなとも思う。起きてから理屈を考える、
