67年を生きてきて、同世代の近所の旦那さんが49歳、53歳、55歳、52歳、60歳で病気や事故で亡くなると、『平凡で普通に暮らす。静かに暮らす』ことは奇跡ではないかという思いが日々強くなる。同世代以上の長生きがいたとしても、早くに亡くなった人をやはり思う。黒澤明の《「生きる」言葉》の中に『普通に生きることが一番むつかしい』がよみがえる。

普通って何?と聞かれても、基準があるようで実はない。人生に平均はない。昨日のような今日があって明日もきっと太陽が昇って沈んでいく・・・という何の変哲もない日常、普通の暮らしが実は一番いい。それが突然のミサイル落下、配偶者の病気、子供の事故、貸し倒れや自己破産、交通事故、突然のリストラ、大地震で自宅消失、原発事故での居住変更と移住、白血病発症の不安増加、見知らぬ通り魔に襲われるなど不幸な種は数え上げればキリがない。芸能人や政治家にだけに事件やスキャンダルが襲うわけではない。

平凡さに飽きて、「何かおもしろいことはないか」「どこかに美味しい店はないか」「イベントをやってないか」「いまの流行は何だ」など変化を絶えず探し求めて刺激を求める。電波からチラシからポスターから「イベントだらけ」「イベント漬け」に市民を洗脳してしまっている。そういう社会の中で、平凡に普通に暮らすのは至難の業である。私も実はこの平凡さや普通って具体的にわかるようでわからない。しかし、私自身が救急車で運ばれたり、子供がケガをした、具合悪そうで迎えにきてくれと学校から知らせがあったり、母から「お父さんがトイレで動かなくなった」と電話があって、葬式の準備を考えながら氷の冬道を走った真夜中を思い出すと、「何もないことがありがたい」という意味がわかる。 

反対に「無事に生き返って退院できた」「無事に希望の大学に合格した」「無事に孫を出産した」「無事に事故もなく帰郷した」「無事に通夜と葬儀を終えた」。共通は「無事に」という副詞である。無事に案件は終わり、普通の日常に戻るということだ。空から危険なものが降らず、突然、刃物を持った人が玄関口に立つこともなく、たんたんと日々が過ぎてゆく。

特段、人に伝えることは何もないが、きょうも酸素を吸って二酸化炭素を吐いて私は生きている。いま吸った酸素が地球上でいつ、どうして発生したのか約45億年前の地球の歴史を読んでいて、複雑な人間という生命体の奇跡を考える。たとえば、『酸素を放出した最初のシアノバクテリアは先カンブリア時代の氷期に誕生(30億年前)』(生物はなぜ誕生したのか・・ピーター・ウォードほか 河出 90p)。光合成が24億年前から始まり、短期間で環境に酸素が横溢する(大酸化事変)がある。生命の発生を促す営みはかかくも長い年月を経て、現在の人と今の自分につながる。ここを省いて植物の光合成と呼吸とかホモサピエンスの話をするが、とんでもない時間の中で一瞬に生まれてまたたくまに去っていくのが一人ひとりの存命期間ではあるが、そう考えると、死は宇宙へ帰る営みだと思えば怖くもない。そう思いたいこのごろである。

  1. 他人と違う事をしたい。他人と違うお洒落なブランド・ファッションをしてみたい。他人と違うちょっと変わった家に住みたい。他人と違う車に乗りたい。他人と違うグルメな食生活をしたい。他人とは違う海外旅行をしたい。他人と違う恋愛をして変わった結婚生活をしたい。しかし他人とは?違うとは?一体誰で?一体どれだけ違うのでしょうね。実は、同じ考えの人たちが大勢いて同じことをしているのです。違うと言う事は既にマーケティング・リサーチされていて、その欲求を満たす販売戦略に載せられただけの事ですね。自分では唯一と思っている事が実は大多数だったりするわけです。只、全員では無い事には間違いないですね。

    • 他人と違うも他人と同じ・・にそっくりです。どうしたってマーケットされてますから無理です。安っぽいシャツ1枚着ているほうがおしゃれに見えたりします。タワーマンションのメーカーの販促部がコピーライターに「都心のタワマン欲しがるのは、ニューカマー(地方から来た人たち)でそこそこ株で儲けたり、給与が良くて成り上がりと超見栄っ張りが多いから、そこをくすぐるコピーやッパンフレットを作ってくれ」と言いました。セレブのあなたへ、下界を見おろす特等席とか、まあ何でも書けますが、買う集団の価値観は同じで違いはありません。住むということが誰とどういう会話をして日常を暮らすのかが等閑視されて、外見での住にこだわるわけですね。たぶん、これって相当、平凡や普通には遠いと思いますが。平凡や普通を嫌がるとそういうセレブった世界志向を続けるのだと思います。いずれ棺桶に入るというのに。

  2. いい大学に入って良い就職先を見つけて出世して楽しい暮らしを築いて一生を終えたいと皆が同じ事を望んでいたとしたら、世の中は回って行きませんね。ホワイトカラーばかりで世界は動いていません。実はブランドスーツより、油まみれのナッパ服がユニホームの人も必要ですし、泥まみれのツナギの農村の青年も必要なのです。何が正解で何が不正解かは夫々の職種でも違いが有りますが、自分が納得でき、社会でも必要とされる仕事に携わって高望みをせず、無理をせず、誠実な一生を送れればいいですね。

    • 油まみれのナッパ服や泥まみれのツナギ服、働きが伝わってきます。農場主に聞くと、24時間、天気であれば仕事・仕事で雨が降っても機械の補修や収穫計画で頭がいっぱい、来年はどこの畑に何を植える、連作できない野菜があるので別な畑へ移動しないといけないから必然的に玉突きで。別な土地へ野菜が移動する。そういう営みの中で食べ物が作られているわけです。酪農も生き物相手ですから24時間、休む暇がありません。糞の処理もありますから。馬の手伝いと牛の手伝いをしたことがあります。朝ごはんは昨日残したサンマ1匹とみそ汁だけでした。夜の8時には寝ます。ジャガイモ農家でしたが、自分たちの飲むミルクのために乳牛を飼っていたし、農耕馬として馬を肥育していました。父親の実家でした。

  3. 昔の暮らしは今に比べれば不便に決まっていますが、現在のように至れり尽くせりの社会環境は既に普通じゃないですね。これに慣らされてしまった贅沢すぎる現代っ子たちが心配になります。この夏の猛暑は皆エアコンで。また喉が渇けば高価な飲料水やアイスを。寒くなれば各種エネルギー使用の暖房と、何でもお金で解決してしまいますからね。サバイバルとまで行かなくても、防災も含めて普通の暮らし方体験講座でも開催した方がよさそうですね。

    • 子供の親世代がサバイバルに弱いですから、ここから訓練しないといけません。貧乏や節約、地味の価値を教えないとね。昨日までいた小4の孫もニンテンドースイッチとスマホをサクサク、i-pad使いの早いこと。どうして覚えたの?と聞くと母親の指先と動かし方を見て覚えたんだと。庭の水撒きやスズメのエサやりは教えましたが、自然より人工のほうにたくさん興味がありそうですが、すくすく自然大好きで育ってほしいです。平凡と普通の暮らしの良さにいつになったら気付くんでしょうか?

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