人間にある歪みについて「事件」(スラボイ・ジジェック)の中に英国批評家チェスタートンからの孫引きだが、人間にある「悪」や「癖」「憎しみの感情」を顧慮すると、自分ではまっすぐ歩いているつもりでも、いつのまにか外から見ると曲がって歩いてることがある。人間の核心にある(悪)への曲がった傾向を無視すると、後でとんでもない方向に向かっていることになる。オウム真理教信者も初めは自分自身の生き方の悩み、何か絶対的な指針というか価値観の絶対性(これを信じれば悩みが減る)にすがれば救われると思って入信していったはず。1+1=2の理系的な結論の出る世界から、人間の悩みは死ぬまで付きまとうという文科系的な人間からみたら、なんであんな汚らしい男のどこが・・と考えるのだ。大学内で文鮮明が教祖の統一教会が信者を勧誘して増やした運動がある。身近にいたので彼が携えた「原理教」の経典とやらをめくると、聖書のアレンジ話が次々書かれて、最後は共産批判で、いまは勝共連合として活動している団体だ。集団結婚式でも有名だ。

「人間はまっすぐ歩くと」は「自分が正しいと思う道」を歩んでも、上部団体の思想傾向や金銭の寄附要求で「いつのまにか曲がってしまう」。中国でも法輪功という思想集団があった。毎朝、決まった体操やポーズをとって急激に信者を増やしていき、中国共産党の脅威になろうとしたところで「法輪功」狩りにあってしまった。どれだけ殺されたかわからない。「信じる者は救われない」(?)世界に突入している。というより、他人と一緒に何かを信じるのは危険かもしれない。間に無理な力や無理難題や不合理な話や案件が出てきて、曲がっていく。だから「孤独をきっちり守り続けると曲がらない人生を歩める」ということか?

  1. 「見ざる、言わざる、聞かざる」、ですか。他人の意見を鵜呑みにしても他人にしかなれませんから、自分になるために先ずは自分自身が正しく無ければいけませんね。これが簡単なようで、なかなか難しい事ですね。他人の言動は、中身にも寄りますが一応参考にしておく事は大事かも知れませんね。聞いた後で判断すれば良い事ですからね。いつでしたか親しくしていただいた有名他社のアート・ディレクター氏が退職してマンションの一室を借りて女性のコピーライターと共に独立しました。週末には私もよく遊びに行きました。そんな或る日、彼からとくとくと話を聞かされました。そのうち聖書のようなものを見せられました。「オレも最初はイワシの頭も信心とか言っていたけれど・・・」から長々と話し出しました。奥様が信者だったようです。暇だった私は一応最後まで聞いて、ハッキリお断りしました。私自身、浄土真宗のお坊さんの孫ですが、お経も読めない無信心者のようなものですからね。布教活動も根気のいる仕事?ですね。

    • いったん,信仰の世界で信じる宗教に出会うと悩みがすっきりして、次の信者を勧誘しようとします。エホバか統一教ですかね。布教が必ず、信者であることの要件になり、お金まで巻き上げられます。寄附と本や物品の購入、新聞の購読と続き、次世代の子供まで勧誘します。これで財政的に盤石なものをつくるんです。村上春樹「IQ84」は、オウム真理とエホバを扱ってます。全部で6巻で長いですが、興味あれば。親が信者であるがゆえに子供たちも苦しむシーンがたくさんありました。

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