
中津は大阪生まれの福沢諭吉が育った町であるが、長崎に近いこともあって各分野で革新的な医家が出ている。以前、村上医家資料館を訪ねて、幕府からお尋ね者であった高野長英を匿(かくま)った村上医家の中庭の白い蔵を訪ねてことがあるが、今回は大江医家資料館。解体新書の原本もあった。種痘関係資料や、ペースメーカーの父と言われる田原淳さん,華岡青洲の画像もある。さらに裏庭には薬草畑があって江戸時代にあった生薬を鑑賞もできるから薬学を勉強している人には必見だ。日本で最初の歯科医小幡栄之助、外科学のパイオニア田代基徳、整形外科の開祖田代義徳など中津から育っている。解体新書にしても、1771年から江戸の中津藩・中屋敷で語学の天才前野良沢・杉田玄白・中川淳庵3人が身を削っての猛勉強で4年かけて翻訳に漕ぎつけたもので、今日、使用している血液や神経など医学用語の基礎も彼らの造語に私たちは負っている。中津市には医学関係の膨大な資料が残っているのである。九州で人体解剖を最初にしたのも中津藩の村上玄水だ。中津市をドライブしていて思うのは「なんて病院が多い町なんだろう!」ということだ。歴史的にわけがあった。
中津の隣町に日田市がある。娘婿が高校時代、剣道部の大将をしていて「日田の剣道部員は生意気で好きになれない」とこぼしていたが、豊臣秀吉が日田の地理的な優位さ(豊前、豊後、筑前、筑後、肥後の交接点)、交通の要衝として利用しようと、豊臣の天領(直轄支配地)とした。徳川になっても九州経営の要として日田を優遇、九州の諸藩ににらみを利かせたのである。公金の出納や管理、送金業務を担って大きくなったのが広瀬家である。私欲を抑えて義を行った広瀬久兵衛など日田商人はコメ、菜種,紙、タバコなど九州の物産を集めて中津港から上方へ運んで富を蓄積していった。財政に困った諸藩は日田の商人に頭を下げて借りに行ってもいた。日田金と呼ばれた。全国でも屈指の信用と繁栄を誇る町になったのである。日田は盆地にあるので夏は猛烈に暑い。
この日田の広瀬家のなかから、江戸時代最大の私塾が出てきた。広瀬淡窓(たんそう)が26歳のとき自身は体が弱いので商人の道は次男に任せ、学問の道を志した。身分や年齢や学力に関係なく、また武士や町人、農民の区別なく志ある人を集めた。北は青森から南は鹿児島まで集まった門人は3000人を超えた。その人たちが全国へまた戻って行ったのだから、当時の人材をつくっていった功績にはすごいものがある。目に見えないけれど、そうした地味な塾ながら人を育てる営みが現代でもあちこちあればいいなあと思った次第である。偏差値を上げるための塾ではなくて、人対人で学べる贅沢、人格の影響が私塾のいいところ。いまでは死語となっている「学徳」が生きていた時代だ。
博物館について書く余裕がなくなったので次回にします。





