男には、常に語りたい欲求がある(渡辺淳一)

この本の中に「男には、常に語りたい欲求がある」と書かれてあった。10年以上書いてる自分のブログの基本も「語りたい欲求から」きているんだと思うが、なぜなんだろう?そういえば私の見るYouTube動画も、男の語り手のものが多い。政治の話はほぼ彼らの意見や分析を聞いている。外交の話は田中均さんと決めている。テレビや新聞はほとんど見ない。ゲンロンカフェの無料配信はよく見る。東浩紀さんのはにかみ的な語りが好きだし、背景にある膨大な読書量が言葉の端々に見える瞬間がいい。12月18日に発売された彼の新刊「平和と愚かさ』を買えるのを楽しみにしている。札幌のジュンク堂に置いてある。JRで札幌往復は1600円かかる。アマゾンで買うとヤマト運輸の仕事を増やすので頼まないことにしている。54歳の日本の思想家が書いた「平和と愚かさ』という題名がいい。ブログで何回か書いたが、渡辺一夫さんというフランス文学者が、寛容や不寛容や平和の息苦しさについて書いたエセイを思い出す。ヨーロッパのキリスト教世界は血で血を流す世界。16世紀の宗教戦争は神なんてそっちのけで殺し合う。学生時代、16世紀ヨーロッパを勉強していた私。東さんの本は、哲学をはじめ西洋の思考の基礎の基礎に、どうしようもない一神教の持つ、終末論思考、最後の自分の救いを目的に、最後から現在や過去を思考する病理を発見している。それを東アジアの一角から討てないかと模索している。コトバは物事を区別する作用がある。区別は差別にも通じて、ギリシャ時代も他民族をバルバロイ(野蛮のバーバリアン)と呼んで軽蔑した。現代も金持ち連中が集まれば貧乏人を軽蔑したり、自己努力が足りないと,揶揄する言葉を平気で吐く人がいる。その富を親から引き継いだだけという人が多い。

(男には、常に語りたい欲求がある)は、(男には常に戦争をしたい欲求がある)と読み替えできないか?スポーツは美談ではなくて、実は戦争の亜形態ではないかと思うことがある。スポーツのルールの発祥はヨーロッパ、特にイギリスだ。戦争に近いのは一番はサッカーだ。なぜルールを決めたのか、決めないと本当の殺し合いになるからだ。選挙も戦争だと言う人がいる。自分が当選して(生きて)相手を落選させる(殺す)。そういう基礎に議会制民主主義が成り立っている。何を書いているのかよくわからなくなったが、東さんの新刊を読もうと言うことだ。

こだわりを減らすと、自由さ寛容さが増える。

自分の好みや趣味やお店や生き方や、たくさんの場面で決断をするときに『こだわり』を強く押し出す人が最近、多い。筆者にしてみれば『どっちでもいいじゃないの?』というレベルの話なのだが、特に食べ物やお店について多い気がする。

選ぶ店や商品が多くなるのに比例して『こだわる人』が多くなってる気もする。広告は必ず、同じカテゴリーの商品(お店)を差別化していかに自分の店や商品が美味しいか・すぐれているかを主張するので、いつのまにか消費者の大脳へ刷り込み(洗脳)を行ってる可能性があって、その刷り込みが、次の人へ(こだわり)を主張すると、また『あれはいいよね』と物真似会話(思考停止・感情・情緒停止)に移行してしまう。企業はそうして消費量を増やす戦略を立てる販売促進を行ってきたのである。口コミが最大の宣伝で、それで実は死者も出たのである。『あいつは赤だ!』で戦前は刑務所に入れられ獄死もいたし、関東大震災では『朝鮮人が井戸に毒を入れた』というデマで朝鮮人が殺されたのである。

ジャンルは違うけれども、私が学生の頃も『あの本は凄いね。さすが吉本隆明だわ』と当時の必読書『言語にとって美とは何か』を話したものであるがさっぱり難しくて理解不能な本であった。知的な劣等感にさいなまれないよう、周りについていくのが大変であった。あれから45年経過しても、まだまだ人類の知的遺産を消化できない自分に苛立つ。『結局、自分は何も知らないまま、このまま死んでいくのか』と正直に思う。

そうであるから、若い人がアバウトでいいところを(未来に解決すればいい)断定的に言うのが気になる。まだまだ世の中は広いのにもったいない。『私はこう感じるんだけど、こう思うんだけど』と枕言葉を言ってから話せばいいのに『これはこうだ、あれはこうだ』と決めつけ言葉を話す。もったいない生き方である。本当に自分の検証で結論を得た話なのか、誰かの権威が裏にあって、それを信奉して話しているのか?それならその権威を出してみなさいとなると『ミシュラン』の星数であったり、信奉するタレントの言説であったり、夕方の地域テレビの紹介であったり、いわゆる味通の断定的な判断であったりする。

断定は、昔から宗教や政治や哲学の世界とも相似形である。汝○○をするべからずからはじまって、神や仏や世界や幸福や救いや、誰でもわかりやすい言葉で語るようにしている。世界全体が、社会全体が生きづらい世の中になってる背景に、単純さへの憧れ、早く結論をくれへの願望があるのかもしれない。国家のトップが丁寧な国語をしゃべらず、説明ができず、結論だけ、自分の言いたいことだけをSNSで発信する世の中は危険で、メディアは「権力者の断定的な発言はそれを電波に乗せない、活字にしない」ようにして欲しいものである。語彙の貧困は情緒の貧困や想像力の貧困、そして一番恐ろしい寛容さが不寛容へ転化する契機になるから気をつけたい。断定的な言葉はいずれ発話者自らに返ってくる。

聖書の誤訳とリチャード・ドーキンス。処女をめぐって。

誰が書いたか忘れたが(最近、物忘れ多い)聖書の中にある処女性の話。「私はギリシャ語約の旧約聖書をつくった学者たちが(若い女)というヘブライ語を(処女)というギリシャ語に翻訳して・・・見よ、処女ははらみ男児を産まん・・・という語を付け加えたとき、彼ら翻訳者たちは大変なことをスタートさせたといえる」。ヘブライ語のままなら「見よ、若い女ははらみ、男児を産まん」という平凡な表現になってしまう。誤訳ならば、無意識の誤訳なのか、知っていての作為的な誤訳なのか?現代でも聖書について、またマリアの処女懐胎について論争は決着を見ない。しかし、回答が誤訳だとしたらすっきりする。

いま読んでいる長い本、リチャード・ドーキンス「利己的遺伝子」(40周年記念版)のはじめに、遺伝子の自己複製(コピー)について書かれた中に、「自己複製から逸脱するケースもある」とのことで、たとえを聖書を写本する人の写し間違いにたとえてこんな文章を見つけた。(61p)「彼らがみな一つの原本から写したのであれば内容がひどく曲解されることはなかったかもしれないが、写本からコピーし、そのコピーからコピーすることを繰り返すならば、誤りは累積し始め、深刻な事態に陥る。・・・・・ギリシャ語訳旧約聖書を作った学者たちが(若い女)というヘブライ語を(処女)というギリシャ語に誤訳し、「見よ、処女ははらみ男児を産まん」という預言を付け加えた時、彼らはあるたいへんなことをスタートさせたと言えよう。・・・ある誤りが生じることは、生命の前進的進化にとって欠かせないことだった」。

なんと最初に引用した筆者の文章(どの本かわからないのが難点)にうり二つ。私はドーキンスの原本を読むのは今回が初めてで、ドーキンスの文章を引用した人の文章を私がさらに引用して書いたような気がする。「人間は自己複製遺伝子の乗り物(ビークル)に過ぎない」という強烈なワンフレーズに魅了されて、実は原本を筆者は読んでいない。しかし、その中に聖書を複写する修道士たちが間違ってある語をコピーすることで、その後の聖書解釈が変わることと、生物のコピーも進化が変わることを述べるくだりを原本で発見して感慨深いものがあった。

ときどき新聞やテレビのコメンテーターが話すのは、誰かのコピー、政治家の語る言葉もコピー、独裁者の言動もコピーではないかと感じることもある。SNSで蔓延する言語も突き詰めれば、誰かに言わせられれている(それこそ自己複製遺伝子のような)内容のような気もする。しかし、一方、コピーを日本語の「剽窃」と変えるとどうだろうか。現代人は、コピーや剽窃の世界にどっぷり私を含めて浸かってる気がするのである。生まれ育った家の両親からの言葉、教師の言葉、親しい友人の言葉、読んだ本の1行、愛する人からの一言。そういう言葉がある時代、ある環境が変化しても十分通用するのなら、コピーは有用であると思いたい。

しかし、これでは「処女」と「若い女性」の聖書解釈はどうなるのか?間違った翻訳であっても後世に有用な働きをしたのならOKとするのかどうなのか。