ある知人から送られてきたレポートで使われていた語彙で、現代人の気分をすくい取ってる言葉だと感心したので紹介しました。
20代前半に世話になった英文学の教授が好きな言葉「距離のパトス」を一瞬、思い出した。Aさんとは30㎝、Bさんとは1m、恋人とも10㎝(SEXしてもゼロにはならない。それどころか、見えないところへ消えるケースも多い)。あくまでも長さは比喩的表現だが、会社の中や電車の中、アルバイト先のおばさんたちの立ち位置を観察していて、「繋がりながら孤立したい」「孤立しつつ繋がりたい」という気持ちや気分が都会に溢れている。
素晴らしいカップル、誰が見てもお似合いに見えるが、よーく観察すると、別れるときにどちらも何かほっとした顔をしているのに気づく。本音は「やれやれ、ようやくひとりになれた。」だ。寂しがりやだけど孤立したい人の群れ。私みたいでもあるし、階下に暮らす妻でもある。正月に1年ぶりに帰宅した息子もそうだ。2階の部屋にのぼったきり、食事と風呂以外は降りてこない。それでも自宅の空気を吸って帰っていった。近所に住む友人に会えればいいが、それも「表題のテーマ」どおりの可能性がある。
電車の中で、向かいに座る人たちの数とスマホをいじる数を比べる市場調査をしている。大体、10人いたら最低6人はいじっている。何をしているかわからないが。私の乗る電車はエアポートなので出張族も多く、ノートパソコンで文書を打ったり、数字の表を見ている。こんなとこでやらなければいけないのかな?車窓から見える自然の景色、いまでは新雪にキタキツネの足跡が残されていたり、枯れた木々にアオサギの巣が残っていたりするのだけど。
養老孟司さんの本に自殺した子供の遺書を読んだことがあって、そこに書かれていたのは「人間関係ばかりで、きょうの雲がきれいだとか、道端にタンポポが咲いていたとか、とにかく自然について一行も書かれていない」と虫の博士の養老さんは書いていた。教室の生徒数が少ないゆえに、教師からの過干渉、生徒同士の濃密過ぎる人間関係、ラインでつながるクラスメート、親の担任以上の過干渉に疲れているのではないか。
そう考えると、「繋がりながら孤立したい」「孤立しつつ繋がりたい」は、小学生からビジネスマン・OL、夫婦まで共通に流れている現代人の気分を表現している言葉だと思うのだ。現代人は言葉と数字の氾濫と人間関係に疲れている。私のブログも言葉だらけだ。付き合ってくれてありがとう。
*養老さんは、経営する保育所の子どもたちを山や海辺へ連れて行く。指導はしない。自然と遊ぶ子供たち。そこで養われる感性や感覚。それが一生の財産になることを養老さんは知っている。彼も地面の虫たちを少年時代、ずっと見つめていていまの自分がある。感性は意識化できない、頭でわかることではない。ある年齢までに体感させないと致命的な感覚の持ち主になってしまうような気もしてきた。文字と知識、器械に囲まれての小賢しさではなく、自然の中でキャーキャー言って走り回る、虫を捕まえる、貝を採る、大空を眺める、そういう子供たちになって欲しいんだろうなあと思う。
現代、そういうところ、わかりにくい社会になってしまった。
