自分の頭で考えて普通の人になる(1)

何回か「自分の頭で考えて普通の人になる」を書きます。いつのまにか自分たちの使う言葉や発想から、思考を自分で停止してしまう発言「●●新聞に書いているから、●●テレビの●●で放映していたから、●●大学の●●教授が言っていた・書いていたから、ヤフーのニュースに書いていた」など、日常で話されているけど、考えてみると、これは昔「マルクスの経哲手稿」に書かれてあるとか「資本論の何ページに書いてある」と同じように、自分の考えを誰かに委ねる、考えるのを止めて楽を選択する、その分、物知りにだけはなる・・・という生き方だ。それが蔓延しているのが今の世の中だという前提で、どうしたら「自分の頭で考える普通の人になれるか」を考えるブログを書きます。

 

私が学生のころ、原理教(統一教会)が理工系を中心に信者を増やした時期がある。人生は1+1=2でないから、生きてみないとわかりませんというのが回答なのだが、答えを欲しがる。オウムのときもそうであって、理工系や医学部生も信者の幹部に多かった。そこに答えをくれるのが(新興)宗教である。したがって、宗教は信者に「思考停止」を命じる。「進化論」もキリスト教では神がアダムとイヴを作ったので、他の霊長類も同様に神に創造されたから「進化論」は誤りだから、教えるなという人もアメリカにわんさかいる。

 

「思考停止」をさせる宗教の特徴は「従え!」であり「裏切るな!」であり「疑義を挟むな!」であり「裏切ると命を取る(首にする)」で、どうにもこうにも「自由思考」にしてくれない。議論なんて大嫌い、ここに書いてあるだろう・・・でおしまい。俺の書いたフェイスブックを読めである。一方通行が大好きなのが、宗教の特徴で、これってSNSの世界に似てるような気もするがいかがだろうか?

 

だからフェイスブックの「いいね!」は、キリスト教徒が聖書を肯定する「そうだね、マリヤの処女受胎からイエスは生まれたんだね」「そうだね、いいね」と筆者は深読みする。信者を増やす宗教に見えてくる。メールで反論が来ると不愉快な感情が沸いてくる経験をお持ちでないだろうか?それは電話での言い合いより深く傷つく場合が多い、なぜならすぐその場で反論できないからだ。。

 

いつのまにか、私たちは、「相手の発言に否を言ってはいけないよ。いいね!」とポジティブ信仰教にはまり、みじめな政治世界と経済の格差社会を作ってしまったのである。それが大量のストレス量を増やして「ひとりになりたい」「メール疲れ」「音楽を聴きながら出社する族」が激増している背景にあるのではと思う。

 

くどくなるけれど、最近の国会答弁や事件のあった後の教育委員会答弁、企業の不祥事の頭下げ整列のシーンを見て、組織にしがみつく自立できない大人たちを見ていて悲しくなるのは筆者だけではないだろうと思う。自分の言葉を忘れた群れの政治家と官僚幹部。安部晋三グループを見るとたとえは適切かどうか、オウム真理教のような教団を想起する。麻原彰晃と安部首相が私の頭の中でダブルのだ。