人間関係が濃すぎる時代、また家庭のこと。

現代人は人間関係、つながり過ぎではないかなと思う。もっとひとりにならないと思索とかアイディアとか恋とか縁遠くなるような気がする。その反動がイジメやシカトにつながったり、学校裏サイトで「声の大きい、断定口調で喋る」人に誘導されるような気もする。電車の中で、中学や高校生との会話を聞いていてね。

養老孟司さんがあちこちで書いていたことで、自殺した少年・少女の日記を読ませてもらったことがあって、全員に共通したのが、自然について1行も書かれていないこと。きょうの空に虹がかかったとか、道端でタンポポが咲いていたとか。書かれてあるのは、先生のこと、教室の同級生とか、人・人・人、その関係だと。人間関係だけ濃すぎる生き方、生活だ。養老さんは少年時代から、虫取り・虫観察をしていたから余計に敏感に反応する。

東日本大震災で「絆」とか「つながる」という言葉が出てきて、それを否定するつもりはないが、「濃過ぎる」「繋がり過ぎ」「近過ぎ」「溜め口過ぎ」「距離なし」に疲れているのではないだろうか。寝ていてもスマホが鳴ったり、寝るときは寝かせてくれよと本音は思ってるかもしれない、生物の必然で。眠いから寝るを取り上げないで欲しいものだ。人の生死は別だけど。小此木圭吾さんというフロイト学者が「ヤマアラシのジレンマ」というたとえで「接近し過ぎると相手の針が刺さって痛いけど、近づきたい、けど近づけない」という。

ヤマアラシが個人の自我だとしたら、適当な距離は夫婦間、子供との間でもとても大事なことだ。自分以外は所有物ではない、自分でさえ違うかもしれない。見えない力や亡くなった親の家訓に縛られてるかもしれないではないか。現代の犯罪の多くは家庭の中での人間関係から。家庭内で起きるか、それを外で外在化しているか。調べてみると親子の距離をどちらも見誤るところから起きてる気がする。

子供への虐待は、子供をあたかも自分の所有物だから自由に扱えるものと勘違いしているし、密着し過ぎの母子関係も事件を誘発しやすい。空っぽの自分を埋める存在として子供を利用する親も多い。「お父さんのようになってはダメよ」と尻をたたく教育ママ群。転勤族の人としゃべると必ず首都圏の私立の中学受験の話が出てくる。100%と言っていい。住居費も高く、物価も高いところでさらに小さな子供から私立へ入れて、給与がいくらあっても足りないのではと心配する。出世して所得を上げないといけない要因がこういうところにもあるかもね。

他人事ながら。無事に私立に合格した後は、やれそこの学校には外務省の役人の子供や上場企業の部長さんの子供と一緒とかウルサイウルサイ。これじゃ、教育ママならぬ実は教育パパなんだ。そして会社では仕事をしない45歳だ。親の見栄に利用される子供たち、いずれ子供からの復讐のときが訪れるような気がするが。喋るだけが仕事だ。ブログを書く今の私みたい。