父、戦争体験語らず~背中から声から伝わるもの~

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高校2年のとき、日本史・夏休み自由研究に「戦争体験を両親から聞くこと」と宿題で出された。以前から日本史教諭は、道内の女性史の戦中聞き取りを集めては本や論文を書いていて、今回も集まった作文をまとめて1冊の本か資料を作ることを企んでいることはわかっていた。とはいえ、私も父親が満州から引き揚げてきて6年後に生れた子供なので、「父さん、自由研究に戦争体験を親に聞くという課題があるんだけど」と言うや否や顔を真っ赤にして「話すことは何もない!」と言下に拒否。余りの言葉のキツサにこれ以上聞くのは止めた。

母に聞くと、元々父は南満州鉄道に勤めていて、大陸から引き揚げてくるときに陰惨な光景をたくさん見た。子どもを捨てる親も見たと。自分もロシア人に腕時計や金目のものは身ぐるみ剥がされて、ようやく逃げてきらしい。話はここまでだ。親父が棺に入るまで、この戦争体験については私から聞くこともなかったし、向こうからも話はなかった。ファシズムの起源や大東亜戦争責任論の本を政治学者や評論家の本を読むだけであった。ただ、「この本を買ってきてくれ」と私に初めて読みたい本を告げられたのが、角田房子著「満蒙開拓団」だ。

貧しい日本から、広大な満州の土地を与えられて(すでに開拓している中国人はいたのに)夢を見た家族や単身者が満州へ移り住む開拓団の物語らしいが、私は未読だ。父も3人の子育て終え、暮らしに余裕が出てきたときに、思い出したのは父自身の青春時代のことだったのだ。どういう時代背景の中で、満蒙開拓団は生きてきたのか知りたくなった、意味のある満州だったのか知りたくなったのではないかと想像する。引揚者だけの団体に加入しているようすもなく、父の青春時代は謎のままだ。小学生時代に病弱な母を亡くした父の寡黙な態度だけが印象深い。

妻の父は、中国の南方戦線へ従軍して帰国した。しかし、聞くところでは、夜中にときどき大声で叫ぶらしい。それは80歳まで続いた。どんな夢の風景に叫んでいたのかわからない。満鉄で働いていた父と中国戦線に従軍した義父では、同じ第二次世界大戦とはいえ、経験したことは違うし、南方の島々で餓死したり、自害した兵士、沖縄県民を考えると、戦争は一度起こすと最低100年(いやそれ以上)は、普通の暮らしの生き方に影響を与える。日常生活においても、どこか戦地の記憶を引きずって生きていくのだが、安全地帯にいて指揮を執る人間にはわからない。

1910年、朝鮮合併があって、これまでの彼らの言語をすべて日本語に強制し、文化を根こそぎにしてしまったこと、炭鉱開発や鉱山開発で財閥系企業中心に働く労働者を中国・朝鮮から強制連行された歴史が今も吹き出している。被害者の記憶は子々孫々伝えられていく。生物学的に記憶は遺伝はしないけれど、文化の遺伝子というものがあるとしたら、活字と映像で残る。戦後生れの個人はいったいどこまで、国の過去や事件(戦争や植民地化)に責任を持つべきなのか、この辺が曖昧のまま(できるだけ見ないようにして)戦後世代は、経済まっしぐらに走ってきたけど、父親世代にあった悲哀や夢の中の叫びは何であったのか、もう一度考えてみたい。

さらに、戦後生まれの被害者側も直接に被害を受けていないものの、先祖にされた被害の記憶をどこまで断罪していくのか、またそれはいつまで?期限のない、締切がない未来展望は単なるカタルシスでいいのか。アフリカでも中東でもウクライナでもチェチェンでも新疆でもネパールでもユーゴ内戦でも莫大な数の身内が殺されている。私の家の屋根から爆撃砲が落ちてきたり、軍靴を履いて突然、自宅に土足で上がり込み、銃を乱射されて妻や子供たちを殺されたと想像してみると、果たして自分はどういう行動を取るのか?

そういう場面にお互い追い詰めてはいけないというのが、人類が会得した知恵だと思うがどうだろうか。