地方公務員、国家公務員の出る会議を傍聴する機会が多く、果たしてこの中で、民間でも使える人がどのくらいいるのだろうかと推理するのが趣味になってしまった。もちろん、その中には大学教授たちも含まれる。理工系の教授連も彼らの使う日本語の質、論理展開、そこにいない市民や道民、国民の目線をどう取り込んで発言をしているか。
なぜなら、元々彼らの暮らしを含めてたくさんの税金を自ら使っているからである。技術的な末節議論に流れてアリバイ発言で逃げて委員会を終わらせる癖がある。しゃべる日本語が定型的で、対象に愛情を感じず、できるだけ早く会議を終えて、この場を去りたい。それが明白なのだ。しかもマスコミの人たちが後ろで控えて聞いているので、全部賛成では、まずいから、たまにはここがおかしいという質問を出すことも忘れない。そして最後は「では、これで了承ということでいいですね』と委員長が言うと全員うなずくことで一件落着。
丁寧であって丁寧ではない、自分の上司受けは丁寧ながら、第三者(この場合は市民や道民・国民で現在ここには不在ながら、一番大切な人々だ)には丁寧ではない。たとえば、どんな事業をするにもお金(予算)を使う。適正な使い方かどうかを審査する会議で大学の教師や税理士や経済界の人が適・不適を審査するのだが、謝礼をもらいながら来るわけだから早々『絶対、私は賛成できない』と席を立つという場面はゼロだ。そもそも、そういう人間をあらかじめ思想傾向を事前に調べてから委員会を構成するから、ほぼシナリオどおりの結論でチョンである。すべて税金が費消されるむなしい儀式である。彼らの人件費も公務員であるがゆえに税金で生きている。
こういう会議こそ、テレビ中継で道民がいつでも見れるようにしてほしいと思う。夜を徹して、その資料を作る、文章を作る、上司に校正を願う、さらに直す、そして再校、資料をあらかじめ各委員に配布する場合もあるだろう。しかし、そのための残業代も税金だ。日本中の官庁で日夜、こういう作業が行われていると想像するとぞっとする。そして都合悪くなると『民間のお知恵を借りて、先生方のアイディアを伺って』と弁ずる。それを考えるために給料をもらってるのではないかと民間なら許されない発言を平気でする鈍感さ。思考停止の集団である。小さな村や市のほうが賢い、住民の意向に沿った政策をするだろうと思うからだ。内向きだけに関心のある大きな集団が日本全国にはびこり、シロアリが屋台骨を食べている風景が浮かぶ。いずれドスンと建物(国)が崩壊する。どこの会社も営業の責任者の目は赤い。きょうもエレベーターの中で分厚い書類を抱えて会議室から出てきた幹部たちが赤ら顔と目を腫らして出てきた。昔の私自身を見るようだ。
