パスカル1623年~1662年(39歳)

フランス学者渡辺一夫さん著『寛容について』(筑摩197p)で(狂気について)の項目で冒頭に引用されている。パスカルの言葉で、数学者にして求神精神のパスカルがキリスト教徒自身の宗派皇宗で殺しあう現場と世の中を生きていて述べた感想。しかし、別に狂気はキリスト教徒の専売特許ではなくて、人間である以上、狂気と無縁で生きている人はいないぞと渡辺一夫さんは言いたいのだ。何かに夢中になっている精神状態は、傍から見たら、普通に『狂気に取りつかれている』ように見えるし、事実、狂気の中にいる。ブログを書く行為も他人が見たら『狂気の中に入っている』と思える。正常と異常、普通と狂気の境は曖昧。ある観念(神や教えや思い込み)、ある人(偶像やカリスマ)、ゲーム、仕事(売上げやフィニッシュ)、恋(異性ほか)、スポーツのイベントと応援風景は全く関心のない人には異常や狂気に見えるのも本当だ。そうであれば、世の中は狂気のON/OFFが日常繰り返して起きているのが現実であることをまず認識して『天使になろうとして豚にならないよう』気をつけて生きましょう・・・というメッセージが渡辺一夫さんの本にはある。狂気なくして文化やスポーツも野心も生まれないのだ。何度も見ていると、それが当たり前になってしまいやすい。16世紀ヨッロッパが大陸の人口増もあって、地球のあちらこちらへ物産を求めて、航海へ出て行ったが、これも狂気以外の何者でもない。巻頭パスカルの言葉『病患はキリスト教徒の自然状態である』がリアリティを持って筆者には迫るのである。『平和とか安静とか正気とかは一応好ましいものとしていますのに、この好ましいものが少し長く続きますと、これに飽きて憂鬱になったり倦怠を催したりします。そして、再び次の(狂気)を求めるようになるらしいのです』(199p)。

現代世界は『退屈病』という名の病に冒されているともいえます。そしてそれで一儲けを企みます。そういえばパスカルの『パンセ』に『所詮、人間のしていることは、気の紛らわしに過ぎない』という名セリフがあったことを思い出した。なんだか、すべてが虚無の海に流れて行くようであるが、一面の真実を突いている。『ある人は(狂気)なしでは偉大な事業は成し遂げられない、と申す人々もおられます。私は、そうは思いません。(狂気)によってなされた事業は、必ず荒廃と犠牲とを伴います。真に偉大な事業は、(狂気)に捕らえられやすい人間であることを人一倍自覚した人間的な人間によって、誠実に執拗に地道になされるものです』(200p)

*退屈病から、狂気に走ったり、孤立や孤独からSNSでのヘイトメッセージを匿名で書いてみたり、自分の鬱的心理を外へ向かって呪詛して心のバランスを取ろうとしがちな現代人。性別・年齢問わず気をつけたいが、日々安心して暮らせる収入がなければ、貧困・情緒不安定・未来への希望喪失になる。足元の現実の辛さを見たくないために、集団の狂気に向かうのだけは意志で避けたいものである。子供給付金を1回10万どころか、配るなら最低半年間は続けないと効果はない。フリーターと非正規雇用を激減させる工夫をしないと結婚組数は増えない。公務員ではなくて国会議員ではなくて、人にお金を配って貧富差を減らすことが社会の安定につながる

 

  1. ほとんどの行いが狂気ならば、正気とは一体何でしょうね。宗教や政治やビジネスに関与せず、スポーツや芸術にも手を染めず、集団に属さず、ただじっとしている事でしょうか。昔は海外に進出して富を得たりしましたが、現代では富を得た者たちが宇宙旅行体験をしたりしていますね。あれは正に狂気以外の何物でもないように見えますね。宇宙ステーションなどと聞こえは良いですが内部は悪臭漂う空間での長期(短期も)滞在で、皆が同じく「地球は青かった」ですね。無重力空間から帰還した途端に筋肉の衰えからか、両脇を支えられながらの歩行です。まるで浦島太郎よろしく一気に年老いてしまったかのようです。宇宙開発は一見平和活動にも見えますが、SFやアニメから受ける宇宙の印象は戦争ですね。宇宙からの地上攻撃も宇宙空間での衛星攻撃などを連想させます。ギリシャ神話の神々が棲むはずの宇宙も人間の気の紛らわし行為の為に、とうとう暴かれてしまいましたね。自然界の中で罪深いのはいつでも我々人間たちですね。

    • とは言っても、宇宙はまだまだ未開です。おっしゃるとおり、正気や正常は架空の概念かもしれないと思ってます。それはたぶん、自分自身が保持しているヤバイ感情や異常な自分の性向や傾向を隠すために、他人や外の世界の異常と思える事件や人を論評してるダケ、熱中して我を忘れたいところに自分を置きたい欲求から出るのかもしれません。アルコールを飲むことや麻薬やッコカインの服用も「現実から逃げる」には最適なグッズだし、好きな芸能人を追いかけたり、スポーツファンになって酔うのも似たり寄ったりだと思いますが。何ごとにも熱中しないという狂気も一方にあるので(哲学をする人に多いです、すべてを対象化しようと身構えている人たち?)。狂気と正常は紙一重でどんな人にもあります。「まさか、あんなおとなしい頭のいい人があんなことをするなんて信じらない」。事件がその人のアイデンティテーを露出させます。じっとしてればいいということではなくて、動けば他人(家族や配偶者・子供・隣人・仕事仲間・恋人・学友・通勤すれば乗客、歩けば歩行者)が必ずいますから、そこで必ず大小関係なく事件が起きます。事件を犯罪と考えないでください。会話するのも事件だと思ってください。事件がないとその人が現れません。そこにその人のアイデンティチー(自己)が出ます、自分でないもと(人)とぶつからないと自分が出ない理屈です。「免疫」と似ています。新型コロナ(事件)が社会の矛盾や制度や人々の隠れていた感情をあらわにしてきたのに似ています。自己は非自己によって自己になるのでしょう。

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