若い男というものは貧乏なものである。(橋本治・貧乏は正しい)
孫引きながら、全文引用します。出典 平川克美『小商いのすすめ』より。この文章をどう読むか?
『貧乏でも自分には力があるから平気』と言うのが人間の強さというもので、これを捨てたら、人間おしまいである。『若い男が貧乏であるということは、人類の歴史を貫く真実で、そしてこのことこそが人類の未来を開くキーだからである』というのは、社会生活というものを営むようになってしまった人間の本質は“若い男”であって、若い男は強く、そして若い男は強くあらねばならないという、それだけのことである。強いんだから貧乏でもいい、なぜなら“富“とはその“強さ”の結果がもたらしたもので、自分の弱さを隠ぺいするために“富”という武器を使ったら、その人間社会は根本を衰弱させて滅びてしまう、それだけの話なのだ。
私の少年時代(昭和30年代)は私を含めて周りは明るく貧乏人だらけだった。60歳を超えてクラス会を開いても大金持ちは誰ひとりいない。一方、今は若いときから、親に小遣いをもらい、奔放に遊び呆けてきた男がある日、クスリで逮捕。『若い男は貧乏である』というところから始めれば、その後、悠々と生きられると思うのである。それこそ、自分の弱さを隠ぺいするために富(親からもらうか株で一気に稼ぐかの違いはあるにせよ)を使うと、その人間社会は根本を衰弱させ滅ぼすという部分はわかるし、身近に何人かいた。高い給与をもらいパチンコ三昧、競馬三昧も多かった。共通は一生懸命に仕事をしない、しないうちにできない人間になってしまっていることだ。働かない癖(働けないではない)が一度憑りつくと取りにくい。ということは逆に『働く癖』を持ち続けることが、過分な富を生み出さなくても納得いく生き方に近づくのだと心得たい。
新型コロナウィルスによる各業種の売上・利益は大幅な減少になる。それに伴って派遣切りや早期退職を促す会社も増えている。新型コロナウィルスの収束時期が見えにくい中、時代は自分で選ぶことはできないにせよ、過酷な世の中になってしまった。どうやってこれから生き延びていけばいいのか。自分の貧しかった時代や結婚後4回の転職を繰り返して生きてきたので、どこかに忍耐強く生きられるヒントがみつかるかもしれない。有名無名を問わず言うのは、平凡に生きることはむつかしいが、それが一番だ。


昔の少年。
振り返ってみれば、20代のあの頃の大阪での下宿住まいの一人暮らしは今では考えられませんね。休日には食費ももったいなくて部屋に閉じこもって油絵に没頭。気づけば夕方。さてご飯を食べなければ・・・。と池田市商店街のアーケードに有る中華飯店に。ライスと湯麵と餃子一皿を頼んでお腹いっぱいに。勘定は200円チョッキリ!。信じられないですよね。一日の食事代が200円ですから、安給料でも何とかやり繰りできたものです。厚生年金にも国民健康保険にも加入して給料の半分を下宿代に払って、しかも絵具など画材も買って、休日には京都辺りまで電車で出かけてスケッチをしたり、当時出来立てのダイエーで超安い衣類も買ったり、一流のジャズメンや国内のミュージシャンのコンサートにも出かけたり、四国は鳴門岬まで出かけたり、和歌山にミカン狩りにも行った記憶があります。深夜の仕事帰りに屋台に寄ってビールを飲んだりと、同じ貧乏でも、今よりも遥かに充実していました。お金が足りなくなれば質屋さんに楽器を持参して9千円ばかりを借りて、月末には流さず引き取りに行ったものです。質屋さんも良心的でした。物価も安かった事もありますが、贅沢さえしなければ一人ぐらいは食べて行けた時代でしたね。おまけに盆暮れには特急に乗って帰省までしていましたからね。今では考えられませんね。
seto
昔の少年さんの体験した貧乏と現代の貧乏が同じ分類に入るのでしょうか?というくらい明るいですね。周りも貧乏でしたから,下宿の大家さん、食堂、質屋,勤めていた会社の社長、みんなに守られているように見えますね。私も山歩きのアルバイトをしていたときに、バイトなのに「厚生年金」をかけてくれました。雇用するとは厚生年金と国民年金を負担するのが当たり前の時代でしたね。働く人を大事にしていたのです、大貧乏であっても、若さだけはありましたし、将来の社会を担うわけですから。安心して生きられた時代です。昔の少年さんの若さのバイタリティー凄いですよ。質屋へ私は時計を持って行ったくらいで金目のものはなかっかたけど、本を風呂敷に包んで運んで古本屋で金にしてました。こういう金って、すぐになくなってしまいましたね。バイトはいくあでもありました。若いだけで使ってもらえた。大学生なのかバイト学生なのか、学生運動華やかな頃でした。兄なんて3年しか大学行かず卒業、私は7年行って退学でした。東大紛争ですね。
広告マン。
20代での都会暮らしでは同じような田舎から出てきて美容院で働いていた若い女性たちとも何故か?お友達になったりしたものです。不思議と都会育ちの友達は少なかったですね。お互い警戒心も働いて心から打ち解けられなかったですね。田舎育ちの私たちは何を見ても何をやっても新鮮で楽しかったですね。パチンコですってんてんになって帰りの電車賃さえなくなったり、ヤクザに絡まれたり、チンピラたちのカツアゲにも遭ったりと、いろんな楽しい事やら怖い事やら、ズルい大人たちに騙され利用されたりもして、初めて殺伐とした都会の人間の本質に触れ嫌気がさしたものです。いろいろな経験から移住を決心したわけです。それでも一時は生まれた土地東京で一から勉強し直そうかと準備もしましたが、考えが変わり、上野から特急に乗って北に向かいました。見知らぬ土地に充ても無いのに驚きですよね。連絡船の上で両親宛に手紙を書いて船の郵便ポストに投函しました。「落ち着いたら連絡します」と。正に「津軽海峡冬景色」そのものでしたね。20代での転職など全てが自分勝手で事後報告でしたね。
seto
逞しい20代ですね。鬼に金棒の人生を歩んできて、これに生きる暮すサバイバル技術も身に着けているんですから。東京を通過して北海道まで来たのは、何かのカンが働いたのでしょうか?福井の雪の思い出があったからですか?失恋→北へ逃避ですかね。私は大失恋で愛知県岡崎に逃避しました。親の近くから逃げたかったですね。心機一転です。しかし、私の場合、失敗で半年で帰ってくることになりました。三河が嫌いになりました。身内で固める住み方ですからね。