「こんなに給料をもらっていいのだろうか?」と家庭教師時代の教え子の口から出た。彼は大学卒業後、トヨタ系のディーラーに就職した。毎日の朝礼で月間新車販売ノルマにあと何台と尻を叩かれる6年を送った。公務員試験は28歳まで受験できるので道庁試験を受けたら合格。道内での転勤はあったものの、札幌の郊外に戸建ても持てた。電話があって20年ぶりに会った。「最初、こんな仕事でこんな給与をもらっていいのか。ボーナスもたくさんいただき道民に申し訳ない気がする」と。ディーラーの給与がどういう仕組みなのかわからないが、販売台数実績が基本給に付加され、多かったり少なかったりが続いていて、何より毎日の営業の朝会議が辛かったと言っていた。「それが、1年たち2年たつと、もらうのが当たり前になってしまい、最初に思ったもらい過ぎの給与の感覚がどんどん薄れていくんですよ」と言う。かく言う私も結婚後3回の転職をして、最後の勤め先は33歳。広告代理店とはいえ、媒体系の安定した経営のA社である。総合広告代理店時代は、毎日飛び込み営業の日々。27歳28歳。しかし、A社はチラシ全盛のころで売り上げ倍々ゲームで営業をこちらからしなくても、市内でもなかなかの給与であった。なのに営業の先輩たちのたえず不平顔不満顔を見てきた。言い過ぎだとは思ったが、「この程度の仕事で市内の中小企業から見ても抜群の給与とボーナスをもらって何が不満あるんですか?」と聞いたことがある。「それはお前が苦労のし過ぎだからだよ」とまで言われた。午後5時になったら帰り、居酒屋で愚痴をこぼし、営業はタクシーチケット使い放題、寿司屋やホテルのレストランでサイン一発で食べれて、電通だって給料は高いが交際費や経費をその中から捻出しなければいけないのでサラ金漬けの部長もいるんだよ教えてもダメ。要は親会社の新聞社の給与と自分を比べて不満を持っているのだとわかる。入り口違うのでしょうがないでしょうと言っても納得しない。そして仕事をしない。後輩たちに丸投げする団塊世代たち。私も楽をしてきたので27年も勤務できたんだけど、つくづく「分をわきまえる」「身の丈を知る」といい顔になるはず。自ら何ごとも動かないで(稼がないで)金だけを手繰り寄せることに邁進する人々の醜さを知った。先日、道庁勤めの教え子も定年を迎えて悠々とガーデニングをしていると挨拶状があった。

広告制作職のサラリーマン時代には、昔ですから平気で連日の徹夜仕事もしました。大型のレジャー・テーマ・パークのオープンに絡んで入社したため、その日からプレゼン用の大型B1ポスター、TV-CM絵コンテ、ラジオCM、園内ガイド・リーフ、アトラクション・イベント等の制作・プラニング作業で終いには会社に出社せず徹夜で我が家のアパートで作業。上がった時点で、営業担当の上司のクルマのリヤシートに横になって仮眠しながら苫小牧迄プレゼンに数回通ったものです。相手先の担当は東京の大手広告代理店出身者で結構いじめられましたが、何とか数字も当時で数千万円になりその後も関連の仕事は続きました。そんな苦しい思いもPCの無い時代でしたから仕方ありませんが、今思えば、給与よりも仕事に熱中していたのだと思います。熱中できたおかげで給与もボーナスも比較的大手でしたので、それなりに貰え、家族を養えました。その前職の地元企業では、全く同じような過酷な働き方でしたが、待遇もさほど良くは無く大変でした。でも、いずれも給与・待遇への不満は言いませんでしたね。むしろ自分の実力不足も認めていましたからね。それにしても、あの忙しさの中で、現在よりも何かと遊んでいましたね。遊ぶ時間がどうして作りだせたのか?不思議ですが、今と違ってすべてにアバウトが許された時代だったのでしょうね。
夢中に仕事をしていると、何かつくっているとお金はどこかに吹き飛びますね。楽しくて楽しくてたまらない仕事や年齢がありますね。体力もあったんでしょうが。私は営業とか企画書づくり、アイディア出しでしたからデザインや絵コンテ、コピーの世界とは違うと思いますが、夢中では同じですね。3回目の転職先は給与も良くて、ルンルン働いてました。しかし、大きなスポンサーが倒産して責任取って退社した営業マンの代わりに私が入ったのですが。先輩たちの同僚への冷たさを知りました。仕事に仕事をしてついに倒れた人。楽をして楽をして5時になれば居酒屋で飲み食いする先輩たち。劣等感の塊のような国立大学卒連中でした。こういう気質は70歳を超えても治らないものですね。家庭迷惑、近所迷惑の人生になっていると想像します。若いときに苦労しないでいい給与をもらうのは、長い目で見ればマイナスになりますね。感謝を忘れます。何をおいても生意気になります。日本の官僚のように。