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丹頂(今井昇撮影)

ある時期、ブログで私は軍事(国防省)からインターネットは始まり、アメリカの経済戦略として、その技術を民間に開放することで、IT王国としてのアメリカが形成されたと書いたことがある。それに対して、友人からの寄稿です。

厳密に言うと、軍事関連の研究システムが民間になって

その後にインターネットが生まれました。

軍のヒモつきなどではないのですが、

インターネット技術自体が、湾岸戦争の際に採用されて

通常の通信を上回る成果を上げたことが、

その効用が知られるきっかけになりました。

また、「軍」と言う場合、もともとイギリスに対する、

市民の義勇軍であるアメリカ軍と、解体されたとは言え

皇軍であった旧日本軍の文化的な影響を残す自衛隊とは

国民との距離感が違います。軍の費用で、完全な民間団体の

活動が行われていたりします。そのへんの見方次第なんですが、

技術的な話と、アメリカの軍制度の話と、両方にまたがるので

見方次第でどうとでも言えてしまいます。

 

インターネットはほぼアメリカと日本によって

発展してきました。日本はアメリカを上回る海底ケーブルを敷設し

さらに、アルファベットだけで良いとする西欧側に対して、

日本語などの他の言語を利用する仕組みを開発し、世界に公開しました。

特に現慶応大学環境情報学部長村井純教授(2013年6月、インターネット

殿堂入り)はじめ多くの技術者や学者が基礎部分で働いております。

ネットを使用する基本の言語の部分で、非西欧社会でインターネットを使えるよう働いていたのです。

インターネットの公開性、公平性に関して大きな貢献をしてるのですが、

あまり知られていません。某国がネット攻撃をしたり、

テロ組織がぬけぬけと犯行表明を出来たりするのも

そのおかげなのですが、たとえそういう事が起こっても、

オープン性を保とうと言うのがインターネットの運営理念です。

(参考)

http://www.sfc.keio.ac.jp/news/20130628.html

村井純教授のホームページです。およみください。

  1. 半世紀前には未だニューメディアなどと呼ばれていたインターネットの歴史はまだ浅いのに短期間に一気に世界に広がりましたね。私達が勘違いしていたのは全て欧米の技術だと思っていた事ですね。しかも米軍に拠点を置く軍の技術が世界に広がったと。確かに軍事産業にも大きく貢献して居ますが、それ以上に我々世界中の一般人への貢献度の方が遥かに大きくなって来ました。しかもかつては考えられなかった子供たちの世界にも浸透しています。でも、一番不思議な事は携帯電話の基地間の交信電波のように空を飛び交うイメージのインターネットも世界中に張り巡らされた海底ケーブルで繋がっている事ですね。更に驚いた事は、しかもその敷設に日本が大きく貢献していたとの事ですね。インターネットに関しては日本をはじめ、世界各国の優秀な頭脳の集大成の成果なんですね。良くも悪くも世界の隅々まで網羅できるネットの技術は今やなくてはならない存在ですね。どこのオフイスでも仕事すべてがネットに繋がっていますからね。

    • 海底ケーブルでつながっているとは、私も通信衛星でインターネットは通じていると思ってましたね。その敷設技術、ケーブルの作り方と安全性など日本の技術はなくてはならないものです。手元に1台パソコン持ってるようなものですね。

  2. 我が妻は高校生時代からタイピストの学校にも通い、当時は花形だった夢のタイピストになりました。英文タイプより邦文タイプを選んだのは、まだ日本社会で公文書のすべてが邦文だったからです。社会人になって化粧品が社に就職し希望通りの社長秘書室で主にタイピストとして結婚するまで勤めました。その後も家庭でフリーのタイピストとして子育てしながら家計を支えました。
    当時、丘珠空港が近かった事も有り、国交省に提出する報告文書などを空港社員が持ちこみ、タイプの仕事は大繁盛でした。一方私は広告会社で当時企画書も手描きの時代でしたから万年筆などで作成していたのです。手描き文字が綺麗じゃあ無いと読んでいただけないと神経を使ったものです。そんな或る日妻に頼んで企画書をタイプで打って貰い提出したところ好評でした。邦文タイプの文字盤は重くしかも活字は逆文字で一目では判読できず熟練が必要です。私が自分で一行の文書を打つのに30分も掛かってしまいました。そんな時代も終わりワープロが出現。今度は私にも打てるようになりましたが、反面、妻の仕事は無くなり、大袈裟な機械と沢山の重い文字盤や特殊文字の活字などを大型ごみに出す事になりました。ワープロはプリンター内蔵で便利でしたが持ち運びに大変でした。そんな時代も長くは続かずIBMのノートパソコンを会社の斡旋で購入、外付けCDドライブ込みで30万ほどしましたが、全く使い物になりませんでした。会社では経理だけがNECのデスクトップを使い始めました。私も知人から200万もしたと言うデスクトップとプリンターを譲り受けて自宅で練習しましたが、これもゲーム遊び機になって持て余していて妻から邪魔扱いされていました。そんな或る日お隣に来ていた室工大の先生がそれを見つけ欲しいと言うのであげました。彼は彼なりに使い道が有ったのでしょうが、私にとっては使えませんでした。私がPCに興味が無かった訳でなく、ウインドウズのデスクトップPC2台と中古マックPCを安く譲り受けたりしてPCショップでカードを購入して増設したりして遊んでいたお蔭で、やっとPCを何とか使えるようになりました。当時は掲示板で見知らぬ遠方の知人とのやり取りはしましたが、インターネットの恩恵にはまだ気づきませんでした。それがつい四半世紀前の事ですから、その後の20数年でのインターネットの飛躍的発達には凄いものがありますね。影の技術力は余り語られませんが、感謝ですね。

    • 私はインターネットやパソコンの世界は音痴でした。営業で走り回る仕事でしたから、デスクに座って何ごとをする人たちをどこか軽蔑してました。企画書はA4で書いたものを女性職員にワープロでうってもらいました。ローマジ打ちが苦手で右手人差し指1本の世界でウィンドウズが出てきても、いまでも全部の指を使い、使用することはありません。情けない。いまはブログと本を探したり、一番多いのはメールで、北海道支社にいた人たちと近況報告ゴッコや写真送付で遊んでいます。それにしても能登半島地震で被災した遺族や避難者、もっともっと救ってあげたいですね。近くの原発も危ないし。5センチの雪くらいでおおげさに報道する関東のテレビ局には呆れます。もぅと大事なニュースがあるではないかとね。

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