縄文時代の前期から後期にわたって、日本列島に住んでいた人口は(北海道と南西諸島を除いて)5000年前の縄文中期で約26万人だ。、縄文後期になると16万人、晩期では75800人と減少する。しかも縄文中期で東日本には23万人が住んでいたのに、西日本には3万人しか住んでいない。縄文人にとって暮らしやすい文化的なエリアが東日本であった。(赤坂憲雄著 東西/南北考 岩波新書 94p95p)

自分たちは歴史の教科書の書き方もあって、京都を中心に思考をしてしまう。東日本には強大な国(というより様々な部族連合)があって、狩猟採集や焼き畑農業や魚介類の採取をして、活発な商取引も行われていたんだろうなと推測する。ある意味で独立国みたいな機能を持っていたともいえる。京都から見ると蝦夷(えみし)、小集団で行っても彼らに負けてしまう。自由奔放な彼らがどんどん南下してくる危機感もあって、征夷大将軍として坂上田村麻呂が東北に送られた。山で暮らすマタギも縄文人だ。信州には大木を転がす縄文イベントが今も残っている。稲作を頑強に拒否した信州であった。

私が何を言いたいかというと、部落問題の起源だ。部落は古くは弥生人にいじめられた(差別された)縄文人たちではないかという仮説だ。西日本に異様に多い部落問題。北海道や沖縄には部落問題はない。狩猟採集をしてたくさんの動物たちを屠ることも日常していた。それがいつのころからか、ある場所に囲い込まれて職能集団として役割を持たされたというのが私の推理だ。弥生人がやってきて、京都の権力と接合、そして北日本の蝦夷退治に向かうという古代日本の歴史観だがどうだろうか?

西日本は家系図を重んずる家庭が多い。知り合いの母子家庭で育った松下電機の人が、婚約者の親からこっそり家系を調べられていたとわかって私に「なんていうことをする親だと」憤っていた、私の妹も相手の両親から「3代前まで家系図を出してください」と言われて、父親が激怒し、(そんな縁談やめてしまえ)と。大阪からお母さんが菓子折りを持って「今回のことはなかったことにして」と。鉄鋼勤めだったから、博多や仙台、千葉など工場のあるところへ飛行機でデートし続けてどのくらいのお金を使ったのだろう。別れて帰ってきた日は、さすがに私の部屋で泣いていた。

娘が京都の私大に通っていたとき、ゼミ仲間に肉屋のお嬢さんがいた。仲良しで行き来をしていた。お父さんも娘によくしてくれて、休みの日には神戸までドライブ、さらに高級和牛をもらったと喜んでいた。ところが娘婿の大分転勤で会う機会も少なくなり、学生時代の仲間から「生活が荒れているみたいだよ」と報告。娘は道産子、そんな風説に流されず、今までどおおりの付き合いを継続して欲しいと思う。

 

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