「天才は面白いと思ったら自分の不利なことでも平気で喋る。秀才は自分が損するようなことは上手に隠す」(河合隼雄)。あなたの近くにそういう天才はだしの人っているだろうか?トリックスター的に振る舞うムードメーカーも大事で、これはこれで相当なな才能とは思うが、見るところ一を聞いて十を知る、ひらめきが尋常ではない人、気になったらどこまでも追及して止めることをしない研究肌。
私の知っている天才的な人は若いときにぼやっとして、自宅で勉強もせず、毎朝、花壇に植えた花の成長を観察してから登校。授業を聞くだけでいつも全校一番、話にも無駄がなくユーモアもあり人気者。中学3年間、毎日、彼と登校したお蔭でなんだか私も賢くなったような気がしたものだ。そして何かいつも考えている。それがぼやっとしている印象を与えるのだ。高校入試も全道一番で入っていったが、以降はノーベル賞云々の話もなく理系の大学教授をやってるみたいだ。
私の育った下町は天才の出るような環境ではなかった。天才的な人はいたけど天才はいない。みんなボケットしていた。「下町ボケット」集団だ。そう考えると、研究者は天才はだし、官僚や役人や大きな組織の民間会社勤めは秀才か?そんな分類が可能かもしれない。でもたいしたことないね、みんな。定年になったらわかるけど。喋って楽しいやつは少ない。人生を楽しんでる友人が少なすぎる。これでは後輩は育たない。
天才の話といえば、前にも書いたと思うけど、あるカメラメーカーに勤めたが知人が「会社の研究所に毎日、噴水の横の芝生で空を見上げてはため息をついたり、メモをしているようで、みんな、きっとあいつはいまに素晴らしい発明をするはずだ」と思っていたら、そのまま定年を迎えて何事もなかったと。吉本興業創業時の漫才コンビの片割れの血を引く彼だから、ひとり漫才とは思うけど、なるほど「天才のふり」と「天才という誤解を世間に与える」ことくらいはできると確信した話ではある。でも天才って、何かいいことあるんだろうか?大抵、不遇な生涯で終わるのが相場で、周りの理解者がいないときつい人生を送りそうだ。今の時代で平凡を貫くことも平凡なことではない。その方が天才的な人生かもしれない。


私は知り合いには、自分は天才だと言っています。が落ちが、天才は天才でもバカボンがつくけどねと。子供の頃は竹馬の友と悪さをさせたら天下一品でしたね。悪さの天才と言う程に凄かったですね。今ならとてもとても思いつかないし出来ない事ばかりを平気でやって居ました。札付きのヤクザならぬ札付きの悪ガキでした。親は年中働きっぱなしですから或る意味自由でしたからね。親子ほどの歳の差の兄の子供は秀才の兄の血を引いたか優秀でスンナリ京大に一発合格でしたが、その後は中学校の国語の教師で終わりました。秀才は天才には慣れないみたいです。天才は他人とは違う才能をどこかに秘めているのでしょうね。その才能の花が開くかしぼむかは環境次第なのかも知れませんね。
私もヒラメキは天才ではないかと10代のころは密かに思ってました。で、私はどんなことでもできると思い。結果は何もできない男になりました。外回りばかりしていましたよ。
「天才的な人」の特徴、とても共感できます。ある動画サイトなどを見ていると、「この人の話は面白いなあ」と思った人は、知識の深さゆえ可能なトピックの連結速度(文学の一説から、深海の奥深さに繋げられたり)が異常なことと、何よりも実は自分が話しているようで、相手のことを語らせているような気がしてきました。相槌の打ち方や話題の振り方、ユーモアと落ち着き、どれも自然にやっているのか技術なのか……そんなことを考えさせられる時点で自分が凡才と気づきつつ、それなりの生き方を試みる日々です。
話し上手は聞き上手ですね。ゲンロンカフェをよく見ますが、そこで登場する人たちの話しぶりを聞いていて感心します。国会中継なんか聞いていられません。話せる語彙の数が全然違いますからね。どんな話題でもついていける、知識の豊かさは死ぬまで追い求めたく思います。それ以上に忘れていくことが多いですから大変です。