人生の短さについて(セネカより)
事故や病気で短命に終わらなければ、人生は十分に長いのだ・・・。
セネカ(BC4~AD65)は、最後は皇帝ネロから自死を命じられて死んだが69歳まで生きた。長命な人であった。
当時は5歳までに亡くなる人が15~35%。5歳以上生きてても平均余命が40代の時代だ。ローマの習慣で子供が亡くなると、葬式は夜分に松明とローソクをつけて墓場まで行く。セネカ本人は元老院で執政もして、公的にも多忙を極めた。実際、周りにたくさんの統治している市民を観察して書いたのが「人生の短さについて」だ。
「暇」の大切さ、多忙の持つ「欺瞞性」「非本来的な生き方」の対比で書かれてある。それをたとえでこう書く。「毎日、毎日を最後の一日と決める人、このような人は明日を望むこともないし恐れることもない。なぜというに、新しい楽しみのひとときが何をもたらそうとも、それがなんだというのだろうか。(中略)このような人生には、加えるものはあっても、引くものは何一つありえない。」「われわれは短い時間をもっているのではなく、実はその多くを浪費しているのである。人生は十分に長く、その全体が有効に費やされるならば、最も偉大なことを完成できるほど豊富に与えられている。〈中略〉我々は短い人生を受けているのではなく、われわれがそれを短くしているのである~我々の一生も上手に按配する者には、著しく広がるものである」。
セネカは、人生と時間を分ける。時間の経過は「貪欲に囚われ、無駄な苦労をし、酒浸り、博奕びたり、他人の意見に左右され、自分の野心に引きずられ、疲れ果てている者もいれば、商売でしゃにむに儲けたい一心から、国という国、海という海の至るところを利欲の夢に駆り立てられている者もある。絶えず他人に危険を加えることに没頭するか、あるいは自分に自分に危険のくわえられることを心配しながら戦争熱に浮かされている者もある」。
私はこの本を20代の初期に買っていたが、ストア派の禁欲主義の人には共感せず、エピクロスの快楽主義が自分に合っているわと・・食わず嫌いなまま多くの時間を広告営業とお客や同僚との飲み会、出世競争、パチンコに費やしてきた。
40年経過してセネカの文を再読すると、60歳を過ぎると、身に染みて言葉の数々が胸に刺さる。私は口癖のように言ってたのが「あっという間に時間が過ぎた」「光陰矢の如し」「少年老い易く学なりがたし」と思っていたから、「そうだよな、こういうセネカの考え方もありだな」と。
日々のスケジュール表に振り回されていた時代、どこかそこにほっとしたものを感じていた自分はいなかっかたかと反省する。ビジネス手帳に用事を書き込むときの快感もあったかもしれない。空白に耐えられない自分がいたように思う。いろんな人とあったりする用事がなくても自分に用事がある毎日。ストア主義の真髄が「自分に用事がある」ということなのかもしれない。自分に自分で会うのが怖いのかもしれない。
空白、余白、暇、他人の時間を奪わない、余計なメールはしない、私のブログもセネカから言わせれば、時間の無駄使いの最たるものだ。最後に「偉大な人物、つまり人間の犯すもろもろの過失を超絶した人物は、自分の時間から何一つ取り去られることを許さない。それゆえに、この人生はきわめて長い。用いられる限りの時間を、ことごとく自分自身のために充てているからである」
表題と違って、人生は十分に長いんだよと教えてくれる本でした。
昔、昔の少年
「人生は短く、一日は長い」。以前、藤本義一氏からもらった彼の書のタイトルだったように覚えている。サインまでしてもらったが中身は読まずに、今もどこかにあるはずだ。確かに彼も他界してしまったが、まだ元気な頃は、短波ラジオのイヤフォンを耳に競馬中継を聞きながら現れた姿が思い浮かぶ。多彩な人は自分を楽しむ事が上手だ。それがパチンコだろうが、競馬だろうが、スポーツ観戦だろうが、読書だろうが、仕事だろうが、何でもいいが、一日を十分に楽しみ、毎日を終わるのだろう。好きこそモノの上手なれの如く、好きな事は長く続けられる。自分が好きな事を見つけられれば人生は充実するのではないだろうか。迷いながら、無駄とも思える時間も使いながら。上を見ても幸せな人は沢山いて、下を見ても不幸な人は沢山いる。比べる事さえしなければ、僕も幸せの部類なのかも知れない。