学問の暴力(アイヌの遺体・頭骸骨泥棒など)

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「学問の暴力」~アイヌ墓地はなぜあばかれたか~植木哲也著・春風社。昨日、一昨日とキレる老人の話だったが、今度は「学問の暴力」の話。学問と暴力とは対極的な概念とは思うが、現実の行為は「学問の名のもとにひどいことが行われるという」通俗的な話なのだ。私たちの身近な暮らしを脅かす危険性を学問は十分備えている。

19世紀中ごろから人類学が創始された。まだDNA鑑定が始まるずっと前のことなので、当時は頭骨のサイズを測り、モンゴロイド系なのかコーカサス系なのかを判断していた。日本人はモンゴロイド系に属するが樺太アイヌをはじめ北海道に居住するアイヌはどうなのだろうと英国とロシアの学者が関心を示し、コーカサス系ではないかと判断した。

明治維新直前の慶応元年(1865年)3人の英国人(2名は函館領事館勤務)が函館近くの海辺の森村(現森町)へやってきて、アイヌの墓から三体分の遺体を持ち去った事件が発生した。1か月後、3人は落部村のアイヌの墓を訪れ、今度はひとりが銃を持って見守る中、13個の墓を掘りはじめ、頭骨を中心に持ち去られた。函館の奉公所は村民の訴えを聞き入れて、英国の領事館へ厳重に抗議し返却を求めた。しかし、この墓泥棒の背景に実は英国の人類学者と大英博物館も絡んでいて、アイヌの頭蓋骨が大英博物館に所蔵され研究の対象になっている。

日本人でも1880年・明治13年東大を首席で卒業した小金井良精(よしきよ)は官費でドイツ留学ベルリン大学で学び、解剖学を修めた。帰国後、帝国大学が誕生すると医科大学の教授に就任し、関心が頭蓋骨へ頭骨測定へ向かっていった。1888年7月5日(明治21年)小金井は北海道旅行を敢行した。「帝国大学の命により人類学研究のため」小樽、余市、札幌、千歳、苫小牧、平取、十勝、釧路、厚岸、根室まで数多くのアイヌの墓を発掘していった。

2カ月を超える旅で70以上の頭蓋骨を発掘していると思われる。英国人と違い、小金井は医師の免許もあり、時々病気の治療とか薬を与えてアイヌ部落の人から感謝もされたらしい。さらに北海道内の病院機関も小金井の来道を歓迎して、アイヌ人種調査に協力をしている。各地の病院長が小金井にアイヌの頭蓋骨を差し出しているのである。2回目の北海道旅行でも70体以上の頭蓋骨を持ち帰っている。

しかし、小金井は発掘の際に、たえずアイヌの目を気にしていた記述も残っている。いくら学問のためとはいえ、先祖の遺体を掘り起こして、特に頭蓋骨を持ち去ることに罪の意識を持っていたのだろう。お礼に金銭や品物をアイヌへ与えたらしいが。「人類学研究のため」という名目なら、ヨーロッパ中の大学や研究機関が、世界中で犯した文化遺産の泥棒もひどいものである。盗んだものを盗まれた国へ返すと大英博物館もルーブルも絵画以外はカラッポになるのではないかと思うくらいだ。

インカもエジプトも古代中国の殷や周や漢時代の文物も盗掘されて売られて、泥棒一家の生活費に消えた。人間の歴史は泥棒が学問の先鞭をつけて、物を盗んだ後に、研究者が「どれどれ調べてみて論文でも書いて発表しようか」という類がけっこう多いかもしれない。しかし、盗掘している横に遺体の親族が見ていてもできる学者がいるものだ。彼らの研究エゴまた学問の持つ暴力性も感じてしまう。

その後の小金井さんは1894年、ドイツ語でアイヌの頭蓋骨についての2本の論文(400p)を書いて、欧米の人類学者から称賛の嵐で迎えられたことは申すまでもない。彼を大学者に押し上げたのはアイヌの頭蓋骨の研究、墓地の発掘によって実現したのだ。さらに1907年(昭和2年)赤坂離宮で御前講演「本邦先住民族の研究」で「日本の石器時代人の人骨の特徴は現代日本人の人骨と異なり、アイヌ人骨に似ている。すなわち、本邦の石器時代の民族は、先住民族は、アイノ(アイヌ)であるという結論に達しましたでございます」と結んだ。