映画に出るアメリカの家族について

クリント・イーストウッド監督と主演作品「運び屋」を見て、筆者が「この映画、最後は外で遊んで、家族を顧みず生きてきた主人公と娘と妻との和解ですね。」臨終のベッドで妻から「そばにいてくれたらお金なんて要らないわ」とは泣かせると私がメールしたことについて・・・知人から。

アメリカでは家族が最優先、これは実際にそうなかもしれませんが、
家庭崩壊した主人公を、メディアに出さないという清教徒的な圧力も大きいです。

刑事コロンボのシリーズ化前の単発作品では、
ヒーローは、同時に良き父、良き夫でなければならないとする
スポンサー側と監督(確かスピルバーグ)との軋轢がありました。
で、決して登場しないが絶えず話に出てくる「うちのカミさん」という、
コロンボらしい設定が生まれました。

日本でいうと刑事ドラマのボス、丹波哲郎や裕次郎などが、
刑事部屋で、必死に結婚記念日に帰れない言い訳をするようなもので、
絶対にそんなシーンは入れないし、もし入れても
「馬鹿野郎、職場に電話するな!」と、プチDVなシーンになったでしょう。

これがアメリカだと、妻や家族とのやりとりを入れないと
「人間が描かれていない」という理由で、最低評価になります。
シンゴジラが日米で全く逆の評価になったのは、この理由です。

シリアスな事件が展開する中、いきなり夫婦や家族の話題を入れても
観客をしらけさせないというのはなかなか大変で、
シナリオライターの腕の見せ所ですが、これには、
家でむちゃくちゃ美人の妻が待っている、
みるからに愛くるしい子供が出てくる、
さらにはラブシーンになる、という常套手段があります。

これも最近では、ブロンド美女ばかり出すなとか、大変なようです。
そういう切磋琢磨があるので、
アメリカのシナリオライターの腕がよくなるわけです。