宣誓嫌いな私です。啓発本も嫌いです。

そういえば、書き忘れてきたテーマで私の「宣誓嫌い」があった。小学校は1学年10クラスで6学年、1クラス55人はいたので全校生徒3300人。札幌一のマンモス小学校。朝の朝礼、運動会の混雑(両親や祖父母も集合したからグラウンドは隙間なく観客は甲子園状態)、学芸会では出番なし(主要な人気者が選ばれる)、水泳大会も上手な人だけ出場(楽といえば楽)。しかしだ、なぜセレモニーを始めるときに「宣誓があったり,誓いの言葉があったり」無駄な言葉の羅列があるのか不愉快でしょうがなかったのを覚えている。要は校長に向かって生徒が、決められた心のこもらない声だけがでかい言葉をがなってるように私には聞こえた。

中学もマンモスに近い7クラスであったが、知恵もずるさも身に着けた中学生の私。私は放送部へ逃げ込み、毎週の朝礼はマイクのセット終えて、さっさと体育館から放送室へ舞い戻り談笑。式典を軽蔑していた。「行進」も大嫌いで、軍隊や甲子園の入場式もセレモニーは止めて欲しいと切に思う。静かに始めて静かに終わればいいじゃないか。集団生活が苦手であった。そういえば、幼稚園のルーテル教会も昼ご飯のお祈りが嫌で逃げ出し、ドイツ人の牧師が自転車で追いかけてきたが、電信柱にしがみつきき大泣きして、母は登園を諦めたと言っていた。5歳から私の協調性のなさは、今でも続いていると我ながら感心する。

とはいえ、周りに迷惑をかけながら何とか70年生きてきた。詩人金子光晴の詩集に「向こう向きになったオットセイ」と題された詩がある。戦時中の故国に背を向けた反骨金子光晴の命がけの抵抗であった。国全体が一つの方向へ走り出す危険に警鐘を鳴らし続けた。いずれそんなことは終わるのだから、何一ついいことはない。無駄な金を使い、行進をして、音楽や大きな声がはびこり、自分たちと同じではない感性や考え方を排斥する社会に傾斜しがちだ。創造的なものや次の世の中を変える人は同時代では必ず異端として変わり者として現れる。異端に共通しているのは自分で自由に考える習慣を持ち、横に彼に伴走する仲間も持っていることだ。

先日、久しぶりに紀伊国屋札幌本店へ出かけた。2階にお目当ての思想書や哲学書や宗教学の本が並んでいる。このコーナーに来ると故郷に帰ってきたようにほっとする。しかし、気になるのはその隣だ。自己啓発本に近い、占いや心理学、これって新興宗教に近い本ではないか。単なる1階にあるOLや少女向けの星占いの本とは違うぞというコーナーにOLが真剣にページをめくっている。「悩むときは解決の指南書を求めがちだ」誰しもそういう経験はしている。悩みの9割が人間関係であってみれば、しかし、「自分が変わらずに相手を変えることはまずはできない」と基本を押さえれば、もっと自分を外から見ることをしたい。(宇宙や遠い世界から自分を見てみる。石器時代や縄文時代に生きていたと想像したり)。宇宙の誕生や生命の誕生などもユーチューブにCGを使ってわかりやすく映像化をして解説している。

表題の「宣誓嫌い」とこのブログはどうつながるのか?集団化するコトバは呪術(呪い)や自己陶酔に近くなるから要注意だ。常識な社会では通用しない特殊なコトバが頻出する宗教は、金もうけビジネスモデルがあるから「逃げていこう」。オウムやエホバや幸福の科学、創価学会、統一教会、手かざしの宗教もある。付和雷同しやすいアメリカ社会もラジオを利用して信者獲得が激しい。「天使になろうとして豚になりやすい」のが人間の別の側面だから、感情のコントロールに注意したい。君子危うきに近寄らず。

今井昇撮影