世界の価値観というのはアクシデント・事故からしか生まれない(スラボイ・ジジェク)

松岡剛さんがユーチューブで発言していたので引用した。ほかに「真理は痛い、だから痛くない真理なんて求めてもしょうがない」「アイデンティカルなものは、事件からしかうまれない」。最近、さらに気になるのは「私たちの自己は非自己がないと自己にならない」。ここでいう、事件とか非自己というのは言い換えると広い意味で、他者とか他人との会話とか親とか友人と同僚とか、通勤客とか隣近所の人とか、人でなくてもRNAウィルスだったり、戦争だったり、地震だったり、火事であったり、狭い世界で人事異動であったり、恋愛であったり結婚・離婚であったりするすべてだ。

そこで自分が形成されるか発現してくる。私は仕事で致命的な大失敗をしたことがある。全道の郵便局職員の職場改善の発表大会の資料が、当日になっても冊子を作れなかった。土下座して謝ってもしょうがなく、全力でバラバラな冊子だが納品した。そのとき職場仲間が2名「忙しいから」という理由で逃げた。3名が残って助けてくれた。地獄に仏であった。私は辞表を出すことを覚悟した。郵政の担当者は人事で飛ばされた。ここまで極端な事件でなくても平坦ななか凹凸のある日常生活で、私たちは数多くの事件に見舞われる。それを事件と意識していないから気づかないだけだ。夫婦ケンカや親子ケンカもある、屋根の雪が相手先の敷地に落ちるトラブルもある

そういうことを小さなときから繰り返すことで、その人の自己や世界観がつくられる。人間観や世間観ともいえる。

有名なスタンダールの「ザルツブルグの塩」のたとえがある。山から取る塩の残坑に小枝を落とすと塩の結晶ができる。真珠もアコアガイに異物を貝に入れたらそれを囲むように真珠ができる。異物(非自己・事件・抗原)がないと自己が形成されないたとえである。また、自分は他人を作っている一助ともいえるので、これは相補的な関係である。以上の話を念頭にして・・・・・

そこで今回のウィルスについてだ。外からやってくる抗原としての異物としてノウィルスだが、世界の免疫学者多田富雄さんや●●●●さんは、ウィルスは私たちの細胞にあって、それが引きちぎられて外へ飛び出したという説を唱えているから面白い。