私たちがあれが欲しい、これが欲しいという欲望や好きという感情は、生産者の都合のいいように、広告その他の手段によって作り出されているのかもしれない。欲望はそもそも人間の中から湧き出るものではなくて、ある時期にその対象物に出逢ってから発動される、欲求されるものだから。
そこにまず物や人がいて、次に欲望が出てくる。趣味の観点から見るとカタログから選んでみたり(カタログの中から選べという命令にも聞こえる、これしか作っていないのだから)。日曜日にすることを前日のテレビや新聞やチラシやDMで教えられて動く習慣がいつのまにかついて身についてしまって、そのことに疑問を感じなくなっている。ほとんど他律的な活動に終始している。
余裕のある社会になって、本当に「腹の底から何かをしたいことって、あるのか?」という根源的な問いである。先取りされた欲望の形で商品開発やテレビ番組作り、週刊誌のネタ探しをされている。消費者はそれを追いかけているだけの世の中に見える。「需要があるから供給された」ではなくて「あらかじめ先取りされた供給で需要が出てきている」のが現実ではないだろうか。情けないが現実はこうなのだし、次々と真似の消費行動が起きないと物は売れないし、景気は良くならない。
「あの人が持っているから私も持ちたい」誰も持っていないものを私は持ちたいも、実は自分の腹からの欲求ではなくて、他人を意識したうえで選ぶ行為なので、真似の反対で、皆が持ってるものを選ぶ行為と変わりはない。いつのまにか、私たちは操作されやすい人間になってしまった。いったいいつからこんな風な人間社会になってしまったのか?テレビが出てきたとき、評論家大宅荘一は「国民は1億総白痴化」になると言ったものである。
テレビはいまや60代70代80代の必需品に見える。若い世代はメールやゲーム、仕事、友人との語らいに忙しくテレビは録画して見たいものだけ見る。サラリーマンはニュースを見るがバラエティは飛ばす「またバカ番組やってる。どの局も同じタレントばかり」テレビは受信機。「受」という漢字が語るように受け身だけ。すでに作られたものを見るか見ないかの選択枝しかない。
民放はお金を払っていないからああでもないこうでもないとイチャモンつけてもしょうがないが、頭がパーになるようで避けている。とにかく、私たちの欲求は、どこかで曲がってしまって「人間が壊れかけている」(ある主婦)のかもしれない。
