カント哲学者・中島義道「善人ほど悪い奴はいない」(ニーチェの人間学)を読んでいた。第二章までの話だ。どのページにも中島さんがニーチェの言葉を借りて、現代社会をばっさり。他罰好みの善人をばっさり。
特に畜群(大衆)について『誰も彼もが目立ちたい、有名になりたいと望み、自分を表現したいと望み、これが叶えられなくても、せめて(自分らしい)生活をしたいと望む。そして、その結果、誰も彼もが互いに見分けがつかないほど同じことを語り、同じ行動をし、同じ人生を歩んでいる』。社会の保護色に擬態して身を隠して生きる(ハイデッカー)善良な大衆。戦後、南米で発見逮捕されたナチスのアイヒマン。
エルサレムで傍聴したユダヤ人の政治学者ハンナ・アーレントは「ただ、言われたことを正確に実行するだけの、どこにでもいるただの人であった」と結論。ユダヤ人社会が喧々諤々になったが、絶対悪はきっとそうした「自分は言われたことをしただけ」という善良な大衆から生まれるかもしれない。たとえは悪いが原子力発電所の建設や運用や電力会社職員はたぶん善良な人たちで構成されていると思う。たまたま、そのとき役員であったり部長であったりするだけだ。
こうした定型的な人生観を作ったのは、大手の新聞社や出版社。丁寧に大衆を教示し指導をし続ける。大衆のうちに『嫉妬と憎悪』の炎を燃え上がらせ、それを煽り立て掻き立てるのだ。腹黒いジャーナリストたちは、真っ赤な嘘と知りながら、『善良以外とりえのない弱者のみ正しい』という嘘ゲームを回転させ(停止しないよう気を配り)、『ほんとうのこと』がばれないように、たえず強烈な麻薬を大衆の身体に注入する。ただただ新聞や週刊誌がもっと売れるためである。テレビの視聴率がもっと上昇するするためである。
東京拘置所から出てくる有名人を、薄笑いを浮かべてガムをくちゃくちゃ噛みながら待っているカメラマンたちのこの世のものとも思えない下品な顔、顔、顔。取材が終わったら。代わりに彼らがすべて拘置所に入ればいいんじゃないかと。『嫉妬と憎悪』の増幅に彼らは加担しているのである。ヘリコプターまで手配してる会社もあるから恐れ入る。
カメラマンはご主人様(テレビ・新聞・週刊誌)に仕える(ニーチェの言葉で)猟犬、身分の低さを知っていて、下品に居直って犯罪者を待ち構える。さらに悪いのは『隠れたところ』にいる。番組や特集を企画した主導層である。ニーチェは彼等を毒蜘蛛(タランチェラ)と命名した。中島さんは、現代日本は『こうした毒蜘蛛タランチェラどもと、それに扇動されて腰を振り続ける学者・評論家・タレント・コメンテーターども、それを見ながら(自分の意見を決める)善良な市民=畜群ども、そしてそれを軽蔑するふりをしながら、横目で睨んで欲求不満と嫉妬に気も狂わんばかりの(地下生活者=多くはネット住民)だけから成り立っている。』
ほぼこれで日本の言論世界がすべて言い尽くされた感がしないでもない。しかし、問題は言論界ではなくて、自分自身だ。ヒットラードイツをニーチェの超人思想が支えたと後付け思考がされているが、真っ赤な嘘で、ヒットラーにニーチェを理解する頭脳はなかったと断言されてる。『弱者は群れやすく、強い権力者を求める』と指摘をしたニーチェだ。むしろいまのアメリカの大統領選挙におけるアメリカ国内に当てはめるとわかりやすいかもしれない。異なる者、違う人たちへの排他性は、自称善人集団が落ちる隘路だから。『みんな』という言葉から外れる人を排除する生き方。小学生や幼稚園からも始まっている。多様性をそれ自体として認める寛容さには高い教養が必要だ。歴史意識も含めて。
しかし、なぜいまニーチェなんだろうか?私の10代末から20代初めにデンマークの思想家キルゲゴール『死にいたる病』も読まれた。実存主義の先駆者として。あの時代はニーチェをアフォリズムの帝王みたいな感覚、目覚めない大衆をどこか睥睨する、高等遊民の世界から読んでいた気がする。天才を賛美する、待望するような機運がニーチェを呼んでるのかもしれない。天才といっても狭い狭い世界での限定されたところでの能力開花にしか過ぎない。狭い世界での天才は狭い世界だけにとどめてほしいものである。世の中のせっきょう他の分野への者へ変貌しませんように。特に政治家へは転身しませんように。

