広告される商品はあってもなくても困らないものばかり。
民間放送局の経済基盤〈職員の人件費や建物建築費の原価償却費やタレントへのギャラ、番組の制作費など)を支える広告。よーく見てみると『実はあってもなくても大して困らないものばかりだ』〈米原万理 真夜中の太陽 35p)。
暇な一日、朝から晩までCMをチェックしてみるとわかる。どれだけ必要なものが少ないかがわかる。必要なものは広告がなくても買いに行く。身もふたもない話だけど。筆者が約30年、その業界で飯を食べて言うのも矛盾しているけど。地元の水道水の広告はない。地元農家の米やキャベツも広告をしない。
生きる上で必要なものには広告費をかけない。無くてもいいものに広告を使う。なぜなら黙っていたら買ってくれない、つまりなくてもいいものを作っているということかもしれない。自分の存在を強くアピールしなければいけないということは、自分がいなくても困らない世の中だということでもある。それだけたくさんの物に囲まれて埋もれている時代。
実は生きる上で大事なものは、新鮮な空気や安全な水、それと地産の食品と暑さと寒さを防ぐ家とわずかな電気(太陽電池でOKくらい)ではないだろうか?加齢とともにたくさんのメッキが剥がれてきて、生(なま)の生存が出てくるから不思議だ。『これは無くても構わない』『あれも要らない、それも要らない』となる。20代や30代の読者で、そういう心境になるのは早過ぎるとは思うが、都会に暮らしていると、たくさんの他人と交わっていると、消費欲望テンションが上がってしまうのはしょうがない。
しかし、それは実は意図的に操作されているとしたら?自分の意思ではなくて宣伝や多数の〈いいね〉だという認証だけでいいのかどうなのか?このサイクルは止まることがない。北海道拓殖銀行の倒産に端を発して、広告代理店の倒産をたくさん見てきた筆者は、その後、独立して広告会社を興したり、同業他社に勤めたり、テレビ局に入社したり20年にわたり多数の人間と付き合ってきた。
そこで思ったのは、代理店の人間の労働は結局、テレビ局に勤務する彼らの上等な待遇を支えているだけではないのかという疑問であった。そのためにする接待は凄い、そして自分も一緒になって遊び呆けて身を滅ぼす人もいる。地方のテレビ局はキー局から流れてくるCM(お金)が多い。東京や大阪からたくさんCMが出てこないと倒産する時代に入ったから、事業の多角化を計っている。
しかし、儲けの前線で兵士として戦ってるのは代理店の各社である。地場の代理店営業マンは『媒体は12月のボーナスは○○○万だ』とか陰でよく言っていた。局の人間は『給与やボーナス金額を代理店に言うのはご法度令』を出しているところもあるくらい神経質になっている。労働量から考えたら見合わないマージン17%~20%で働いている。きょう久しぶりのテレビ局の中堅営業マンの生口調を聞いたが、断定的な物言いといい、熱を帯びた日本語。ああ、昔、自分もこんな口調で話して仕事(売り上げ)を獲得していたなあと反省しきりである。もう半分、詐欺師の心境に近くなったこともある。『広告される商品はあってもなくても困らない商品ばかり』であるから。
次のような番組を作ることができれば、自立した報道部を持つ局足り得ると思う。(1)車のメーカーは道路維持費を直接負担してはどうか?(2)携帯やスマホで耳に直接当てると脳腫瘍を増加させるのは本当か?(3)電子レンジの近くに赤ん坊や子供を近づけないというイギリスの小児科医の発言は本当かどうか?(4)テレビでCM流している健康食品は実は原価が幾ら幾らで、全く効果がないってホント?(5)肺がんの原因はタバコではなくて車の排気ガスではないかと言う学者もいるから人体実験をしてみました、さあて肺はどうなるでしょうか?
広告マン。
ハウスメーカーは家を作って売るのが商売。クルマ屋は車を作って売るのが商売。酒造メーカーは酒を造って売るほかに飲み屋に販路を広げて売るのが商売。売れなければ倒産するので広告を打つ。それで売れるから広告を打つわけで商売が成り立たなければ打たないだろう。つまり、この世からサラリーマンが居なければ会社組織も工場も不要なわけで、自給自足生活さえできれば、何も他人様にへつらうこともお世話になることも無いわけで、社会の構造自体が全く違ってくれば、税金も要らなければ役所も要らず、電力会社も、水道局も、交通局も、開発局も郵便局も、放送局も病院も、ホテルも、温泉も、航空会社も、スーパーマーケットも、図書館も、学校も幼稚園も要らないと。なれば?暮らしていけるのは、ほんの一握りの、病気もケガもしない屈強な人間しか生き残れないのでは?。学問などせず、農業ができて、狩りができて、魚を捕獲できて、衣類も作れて、家も自分で建てられて、手作り道具と、移動手段も足だけとなれば、縄文時代に戻るしかない。広告そのものが悪いのか?それとも広告に踊らされる者のせいなのか?不要なものの選択肢は個人にあるのでしょうね。
「或る時は広告営業マン。また或る時は広告制作マン。」二つの顔を持つ男。
クルマやさんに勤める人たちの給料は車の原価と経費を差し引いた中から支払われます。値引きをすれば、それだけ利益は減りますから給料やボーナスに影響が出ます。放送局や新聞社勤務の人たちの給料は電波料やCMの放映料、新聞・雑誌の販売料金、制作費や設備経費を差し引いた中から支払われます。どんな企業でも仕組みはほぼ同じでしょう。そこに勤務する人が増えれば増えるほど利益を産まなければ経営も、働いて貰う社員生活も成り立ちませんからね。ビジネスは必要な利益を産むために行われるもので、働かずに遊んで暮らせる世の中にならない限り、この図式は変わらないでしょうね。そこで、より利益を産むために広告をして販売促進につなげるわけですが、広告ですべてが解決するわけでもなく、ほとんどは効果を期待するだけで当てにはなりません。博打にも似ています。なぜなら、消費者の考え一つに掛かっているわけで、CMを流す側よりも、受け手に選ぶ権利があるからです。利口な消費者は広告なんかで、そう簡単には騙せませんからね。
(^^♪
トイレットペーパーは必要ですか?昔、田舎では新聞紙をもんで使っていましたし、蔦科の植物の大きな葉っぱも使いました。原価はタダです。水道水は谷川の水を竹のトイで引いていました。井戸水も使っていました。水道料はタダです。冷蔵庫などありませんし、洗濯機もないですからタライや川で洗濯です。電気代は夜の照明だけです。焚き木は山から調達していましたし、木炭も炭焼き手作り窯の小屋で作り、売りました。田植えも、畑も自分でやり、米や野菜は買いませんでした。買うものは牛乳瓶に入った牛乳と、めったに食べられない牛肉と豆腐です。そのほかにはウサギや野鳥を捕獲して肉を食べました。鶏は卵を産まなくなれば食べました。魚は裏の川で釣ったり手づかみしたり網で捕獲しました。潜ってアユをひっかけ道具でも獲りました。たまに買う魚屋の串刺しで焼いたサバやアジがご馳走でした。柿木にのぼって長い竿で柿をもぎ、皮をむいて干し柿も自家製で売りました。スキーも孟宗竹で作りました。こんなに便利すぎる今、あの暮らしはまだできるのでしょうか。
夢見るシジイ。
考えた事もありません。なぜなら、要らないモノは無いからです。いるものだけしか買いませんし、要らないものは既に全部捨てましたからね。でも欲しいものはありますよ。お金ですか?ね。手元にお金があれば、欲しいものも見つかるのかもしれませんが?今のところ無いものですから、欲しいものも具体的には思いつきませんね。とりあえず、年末ジャンボを10枚と千円分のロトでも買って夢でも見ていますか。
小さな広告社。
広告界ではマーケティング・リサーチなどと理由をつけて販促企画をクライアントに提案します。しかし、それが正解か否かは当の本人たちも知りませんし、責任は一切持ちません。それほど曖昧なのがマーケティングです。「だろう」?。「そうに違いない」?。と、まあこんな具合です。でもプレゼンテーションの席上では自信たっぷりに説明します。なぜ、そんなに真剣な顔で説明するのかと言えば、それがビジネスだからです。実際に商品を販売するのはクライアントで、広告を掲出するお手伝いまでが広告会社のビジネスだからです。マーケティングの資料作成時のサンプルもほんの一部分ですから、それをマーケット全体とは到底考えられませんし、悪意があれば、良いとこ取りの資料作成もあるかも知れません。従って信頼関係を築いて本音でのビジネスが大切です。広告会社とのお付き合いは、安いからとか?、社員がたくさん居て大会社で安心だからとか?そんな基準ではなく、親身に相談に乗ってくれる広告会社がおすすめです。たとえ、立派ななビルの大会社でも、中にはいい人もいますけどね。ちなみに僕の会社は目立たない超古いビルの一室にある超スモールな広告会社ですが。
美観とCM。
広告は罪悪のように言われます。実際に僕もそう思う一人です。公共交通機関の電車やバスのボディにまで広告しなくても?TVの番組途中CMの多さに?新聞紙面の美しくない広告表現?大量の折込チラシの効果?など要らない商品と言う前に、要らない(歓迎しない)CMが多すぎるとは思います。街を美しく保つには広告スペースの基準を考え直した方が良いのではとも思います。公共交通機関も運賃だけでの経営が困難な部分を広告収入で賄おうと言うことでしょうが、たとえば、電車の中吊ポスターや、額面ポスターやドアにまでステッカー広告など一掃して2~3か所にデジタル・サイネージにするなどで集約するなど美観も考慮してほしいと思うのです。
ゴミ屋さん。
DIYの大型店があちこちにある。ここで部材や部品や道具を買って大工さん顔負けの作業をする人たちも多い。ほとんどプロに近いやりかただ。僕の自宅の対面にもそんなお爺さんが居て、何か困れば声をかけて解決してもらい重宝している。ガレージをつぶした作業専用小屋の内部には、商売人のようなプロ機材ばかりで無いものが無いくらいで、毎日のように朝から機械音が響いている。その点、我が家には、古くて錆びたノコギリや中途半端なペンチやドライバーくらいしか無い。僕にとっては、DIYは余り興味の湧かないジャンルで、DIYの大型チラシが新聞に折り込まれてくる度に「また、ゴミやさんのチラシ」と、つい口走って顰蹙を買う。つまりDIYは作る楽しみが終われば、いつかは不要物として捨てられることが多いからで、DIYの大型店近くを通る度に「またゴミを買ってる」などと独り言で口走ってしまう。まもなく旭丘にも、またDIYの大型新店舗がオープンする。また、ゴミが増えなければいいが。