もう親を捨てるしかない(島田裕巳 幻冬社新書)
幻冬社らしいショックなネーミングの本に釣られて読んでみた。私と同世代はまだ一人か二人の親を抱えているし、高齢の両親が4人とも健在で、60代の知人たちも体力的に参っている。実の親が認知症に二人ともなってしまい、介護のために定年延長を断った銀行員もいた。『65歳までならいつでも銀行に戻れれよう配慮するとは言ってもらったが』とも。
一方、長くはないとは思うが、80歳後半から90歳を悠々と過ごしている老人も多い。その子供たちは『早く死んでくれないか、先に面倒を見ている俺たちが逝ってしまうよ。』正直にそう言う話をヒソヒソしてくれる。幸い(?)筆者は4人とも他界して介護はなかった。この本のメーンはサブタイトルの(介護・葬式・遺産は、要らない)である。最後の遺産は、欲しいだろうけどね。
日本人は長生きし過ぎかもしれない。2015年5月時点で男女の平均寿命は84歳でトップ。アメリカは79歳で、日本人より5年寿命が短い。国民皆保険制度が日本人の長寿を担保している。長生きするからガンでの死亡が増えるのは当たり前。60歳までなら最先端治療をして病気を治せばいいと思うけど80歳を超えて心臓外科手術を莫大な医療費を使って治すのを最近多く聞く。私は病院でモルモット的に手術されているのではと疑う。ここはもう一度考えてみる必要がある。
病院経営のために患者を利用する時代になって、医療産業の中での老人の位置づけ、葬祭業を支える老人たち。老健施設も30年後、一体何に使う予定で施設を作っているのか。半分は閉鎖である。。残された子供へ最小限の負担でさっさと逝く習慣を持ちたいが、それができなければ、子供に捨てられることを覚悟して生きたいもの。
友人の両親は70歳を超えて、元気なうちに戸建ては売却し夫婦して、老健施設に入居。男の子二人とも首都圏から帰郷せず、諦めていたのだ。半年に1回、友人は親を訪ねて埼玉からやってくる。『安心だよ、ああいう生き方をしてくれると。いい年金をもらっているしね。温泉付きの老健だし』。
しかし、年金額はどんどん減らす方向や支給年齢を上げる予感もしていて、とりあえず私が考える小さな対策を一つ。私は子供の少なくなった小学校を利用して第三セクターで老人ホーム併設をある市に提案したことがあるが無視された。給食も食べれるのにね。子供の声が聞こえる老人ホームはきっと楽しい場所になる。子供もここで『人間が死ぬということ』を身をもって覚える人生勉強の場である。保健室を充実させて、ヘルパーも常駐させれば安上がりだし、老人の費用負担も安く済む。
話は変わるけど、『親を捨てる』ではなくて『親から捨てられる子供たち』も深刻だ。さらに親の年金にすがる子供や孫も多いから、生きるために親が死んでも生きているときと同じ年金をもらい続ける子供も出てくるわけだ。ここはややこしい。しかし、自分が生きるのは他人のためだと思う人生観なら、子供や孫の犠牲になったり、親のために身を削る子供でも納得のいく生き方ではないかとも思う。
一生の終わり方。
自分は独りで生きて来れたわけではなく,親兄弟姉妹親戚ほか多くの他人様のお世話になって現在があるので,恩返しの意味での介護や支援は当然だと思いますね。それに加えて子供や孫たちへの支援にしても,かつては自分たちも面倒を見てもらった記憶があれば,当然のことだと思います。そんな経験のない人なら別ですが。核家族化が当たり前になって,親も自分たちも含めた家族の絆は希薄になり,今後は年老いた親たちは自分自身で終活を考えなければならなくなっているようです。高齢化社会と言われて久しいですが,このまま行けば老人の自殺者も増えるのではないでしょうか。
老人と子供たち。
或る保育園では老人施設も経営していて,子供たちと老人たちが一緒に遊ぶ時間もあるようですね。子供にとっても,ひねくれたゲーム世代の若者たちと遊ぶよりは人生経験豊富で穏やかな老人たちと遊ぶほうが良い訳で,一方老人たちも孫世代の子供たちは可愛い訳です。いずれにしても,子供も老人もお互い「健康」が最低条件ですけどね。
将来を見据えた建築設計とは。
我が家の近くの小学校に孫たちの「学習発表会」参観に行ったときに感じたことは,廊下と教室の間に仕切り壁が無い事だった?。自分たちの子供の頃の教室のイメージでは教室ごとに仕切られた個室だったのに?と,福祉や介護の仕事をしていた家内に聞くと「行く行くは老人介護施設にも応用できるように設計されているの」だと聞かされたました。「なるほど」仕切り壁が無いと言うことは扉や敷居やレールや溝も無い訳で,つまり「バリアフリー」になっていると言うことでした。市立小学校全部がそうかどうかは知りませんが,この小学校は27~8年前にこの住宅団地とともに建設された学校で,当初は札幌の若手建築設計家の「札幌建築塾」の連中が大手ジェネコンと一緒に街づくりをした経緯がありましたから,彼らの発想なのかも知れません。ちなみに僕の自宅も当時のモデルハウスのうちの一軒で断熱住宅の権威の若手設計士がハウスメーカーと共同で設計したものです。今では古くなってきましたが,ここに住むことに決めたのは,まだ小学生だった我が家の子供たちの一言。「ここなら友達呼べるね!」だった事を思い出しました。
介護ノイローゼ。
両親の近くに居た長女の姉は,嫁ぎ先の両親と実家の両親の介護で,クルマで往復一時間のところを毎日毎日世話をしていましたが,あまりの疲労から一時は赤信号に突っ込むまでにノイローゼ気味になりました。僕は遠くに居てほかの姉たちも東京ですから長女の精神的肉体的負担は極限にまでなり,穏やかだった表情まで一変しました。あのままでは長女の姉は身が持たなかったと思います。最初に母が夕方に亡くなって,仕事中の僕は翌日の飛行機で駆け付けましたが長女の姉に一括されました。父の時は東京の姉たちも交代で老健に就いてくれましたが,僕は何度も見舞いに行ったのですが,両親の介護は経験していません。そんな大変な介護をしてくれた長女の姉は軽い初期認知症で,今では芦原温泉の保養介護施設に夫婦で暮らしています。これも彼女の息子夫婦のおかげです。