エラスムス

左エラスムス

ラスカサス

ドミニク会修道士 ラスカサス

司会(フロイト)「では、まずイエスさんから。」

(イエス)「まず、シャクシャインさんの言葉に、一神教には何か恨みがこもっているという話がありましたが、それは本当に愛について誤解されてると思います。たぶん、1096年から1270年までイスラム教徒との十字軍を初め、16世の同じキリスト教徒でありながらの殺し合いを続けてしまった、キリスト教徒の国として恥ずかしく、インカ帝国の金銀を略奪したベネチァの強盗団をカトリックの牙城スペイン国王が認証を与え、インディアンが人間かどうかという有名なバリャドリ論争をもたらしたことも恥ずかしく思います。非ヨーロッパの人々へ愛を向ける前に、果たして彼らが人間かどうかを議論していたのですから。イスラム教徒に対する愛もね。さらに同じキリスト教徒間でも愛より憎しみの量が全ヨーロッパを覆ってしましました。小人数の原始キリスト教時代には、そういうことがなかったのですが。(汝の敵を愛せよとか左の頬を打たれたら右も出しなさい)とか、現実の領主や教会は目の前の利益を最優先に生きてきたことは大いに反省しておりますが、しかし、そういうなかにあってもエラスムス・トマスモア、セバスチャン・カステリオンや(インディオに関する簡潔な報告)を書いたベネディクト修道院のラス・カサスさん、モンテーニュさんもいたわけで、忘れてほしくありません。」

(フロイト)「十字軍の話が出ましたが、ムハンマドさんはどうですか?エルサレムが偶然のいうか必然というか一神教の聖地であるがゆえの場所の取りあいから、宝飾品の強奪がイタリヤ各都市や商業人が同行して泥棒行為をしていたわけですが、いかがですか?」

(ムハンマド)「十字軍の始まりそのものが、イスラム教徒であったセルジュックトルコがイスタンブール初めビザンツ帝国へ侵入していって、ビザンツが助けてコールをローマのキリスト教国へ呼びかけたのが始まりですから、こちらにも非があると言えばあるわけです。1回目は、十字軍はエルサレムを奪還しましたね。しかし、何回も十字軍を重ねるうちに貧しい西欧は、豊かな土地やイスラム経済の豊かさに触れていきました。特に4回目の十字軍は露骨にベネチアの商人が宗教というより、サラセン諸国の文物が目当ての一団でした。イスラムはギリシャの哲学書や文化を大切に保管していました。ギリシャ語からアラビア語に翻訳しておきました。その蓄積からルネサンスが生み出されたわけで、アラビア語から今度はラテン語へと再翻訳されて、近代ヨーロッパが花開いたわけです。そういう文化の伝授をヨーロッパ諸国は幼稚園や小学校から教えていますか?それを幼いうちから教え込めば、お互いの理解や感謝の気持ちが芽生えると思いますよ。愛についてはまた後でお話します」

(フロイト)「モーセさんの方から何かひとことお願いします」

(モーセ)「いま、ムハンマドさんがおっしゃったことは、大事なポイントでイスラム教徒がいなければ近・現代のヨーロッパはなかったということです。これは朝鮮文化がなければいまの日本の仏像はじめ焼き物や建物もなかったのと似ていますね。単独で独立で生まれる文化は実は何もないと思うといいですね。私も預言者に列せられているわけですが、エジプトで影響を受けた一神教、それが誰の発案でどういう文字・記録があるかわかりませんが、それがないといまの私はありません。モーセ5書という文書もありますが、あれだってまだ沢山の文書があっても主要なものだけ選んだに過ぎません。死海かその近くにまだ眠ってるか失われた大事な文書があったかもしれません。それはキリスト教やコーランにも言えて、語られてないものにひょっとして最も大事な言葉があるかもしれません。ただ、残されたものだけで判断すると大きな間違いになったり、都合のいい文や言葉をうまく権力者が別な目的で利用したりして、信者を動かします。新興宗教はほとんど換骨奪胎でできてるようなものです。アメリカのマスコミを使った原理主義も勢いあります。皆さんの話を聞いて、私が死んで約3200年が経過してますが、ざっと人間の歴史を見てみると、果たして宗教という存在、特に一神教が人類に与えた功罪は、この際きっちり遠慮なく語ってもいいと思いますが、皆さんどうでしょうか?」

(フロイト)「ユダヤ教における預言者になっているモーセさんから爆弾発言が出てきました。ここまで言われると愛については、また後で語る題材になりますが、よろしいですか?」

イエス・ムハンマド・釈迦・孔子・シャクシャインうなづく

 ここで休憩タイムに入る(第3回終了)

なお、第1回は6月8日、第2回は6月10日に掲載済みです。

 

  1. 神は存在しないと分かっていても、いると思うと安らぐこともある。誰も本気で神が存在するなどとは思っていないのだろうが自らを律したり、教えを説く場合にも生身の人間が言えば『偉そうに』となるところだが、神からのお告げの代弁者の立場で物を言えば『ありがたい教え』となる。我が家では、子供に悪さをしたら神様のバチが当たるよと教えている。つまり僕が神父様に成り代わって教えている。腕白坊主が悪さをしたら、何故か神父様(?)の言う通り、タイミングよくバチがあたるから不思議だ。先日の朝も、腕白坊主が悪さをして外に出た途端、カラスに、頭から糞をかけられた。『ほ~ら見ろ!』と神父様がのたまわくと、神妙な顔で改心の様子だ。この日の神様はカラスだった。アイヌ社会ではないが自然が神様の代わりに何でも教えてくれる。主義主張の違いで血を流すのも、僕達には永遠に姿が見えない、形のない神のシワザかも知れない。

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