今を楽しめない人は、未来を楽しめないと多くの人は言うが本当だ。未来のある時点を実現するために今を犠牲にして生きる習慣を幼少から植え付けられてきたとつくづく思う。

戦時中の日本国内も、米英との戦争に勝利すれば云々で、負けた場合にこうするという構想がなかった。戦いは負けが半分・勝ちが半分。丼で遊ぶチンチロリンをしていれば丁と半は半分だ。原油がこれしかありません、小麦粉が何人を食べさせるのに1年分しかないとか目に見える具体的な数値を外して、全部、精神論へ世論をメディアを使って動かしていく傾向は現代でも続いている。いま辛抱すれば、きっと未来にいいことがあるはずだ。辛抱の中身は多くはお金であったり、贅沢な日常を避ける生き方であったりする。

考えてみると、今を楽しむというのは、これまでの日本企業ではタブーな部分を乗り越えていかなければいけない。ニコニコ顔で仕事をするより、苦虫顔で頑張る姿が印象深いし、企業にとって有能に見える。バカをやって職場の雰囲気を和ませるより、まじめに売上に貢献するため、仕事だけの電話なりメールをせっせとする人間が評価が高い。サービス残業のなかにも、帰宅できるのに帰らない社員も多い。ただ、多忙な人はより多忙に、暇な人はより暇になるのも企業の中で良くみられる。忙しいから結論や作業が早いので、他人はまた彼に仕事を投げてしまうのだ。

しかし、それも現役世代までの話で、当時はマイナスの価値と見られていた、ニコニコ顔やバカをやってる人間が定年後、生きてくるから不思議だ。定時になるときっぱり帰宅して、部長会の後の社長へゴマスリの定例飲み会を欠席して、社長が命令する出席言明をも無視して地域の活動やバドミントンクラブの練習へ参加したり、夜になると好きなMacいじりで遊ぶ。印象深いのは職場最後の日、総務から『最終日なので社長に一言挨拶を』と求められるも『ノン』でサヨナラ。

それもそのはず、最後の一年は社長からシカトされるもひとりで戦った。自分の耳が途中でストレスで聞こえなくなってきてもね。(ストレスで難聴になるから皆さんも注意してね)先日会ったら、若い。まだまだ好奇心の塊で、Macの最新鋭の機種について語り出す。金払いも良くて、お茶でも居酒屋でも1対1なら筆者が財布に手をかけようものなら「ノンノン、僕が払うよ」。「落語に出てくる江戸っ子みたいだね」と彼に言うと「嬉しいことを言ってくれるね」と舞い上がる。今日を楽しみ続けている。

定年後のお手本だ。地域でも重宝がられ地域イベントの名簿作りに欠かせない。飲み会の誘いがあちこちから多いが、痛風が悪く無理が出来ない。こういう人は例外である。彼の自宅を訪ねたとき、書斎を見せてくれた。スゲー。『石川淳』の全集19巻がセンターに置かれて、2階の寝室に壁一面に書棚を作り、彼はフランス文学専攻だったから、単行本のヤマだ。永井荷風の本もある。能あるタカは本を隠すっていうことか。大学時代の同級生の自宅の書斎に入った時、筑摩世界文学全集が壁一面に置かれていた衝撃にも似ている。Macのハウツー本も多数。文系と理系がうまく融合している。こういう大学生が当時の出版社の経営を支えていた。学問ファンは大事な人たちだ。日進月歩の理系やたくさんの教訓に満ちた文系の広大な世界の共存に寄与する生き方。

いまを楽しく生きる工夫を日々したいものである。アレキサンダー大王が来ても『そこをどいてくれ、日当たりが悪くなる』と言ったディオゲネス。今を楽しむ人は戦争が嫌いだ。楽しい時間がなくなってしまうからね。だから普遍的な生き方でもある。そして他人へ説教臭がしない

Leave a Reply

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です