ペストの歴史(宮崎楊弘)山川出版(1回目)

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武漢で始まったウィルス。人類はずっと前にたくさんの疫病で死者が出ている。中でも特記すべきはペストである。その1回目を掲載したが、ブログカテゴリーで『ペストの歴史』を7回にわたって書いているので関心ある方は、そちらのほうもあわせてお読みください。

人口の激減をもたらしたペスト(黒死病)の歴史を読み始めた。日本では旱魃による飢えや地震・火山噴火・チフス・武士同士の陣取り合戦などで大量死が起きているが、ペストが上陸して死者が出たのは1899年神戸に上陸、2420人の死者発生で済んだ。


しかし、世界の歴史に目を転ずると大きな大量死(ペスト大流行)の波が3つある。第1波は541年~767年、第2波は1340年~1840年、第3波は1860年~1950年まで。


きょうは第1の波について。法律の原点ともいえる「ローマ法大全」を編集させた東ローマ帝国ユスチアヌス大帝の時世にエジプト(エチオピア)あたりから始まり、陸路・海路で広がった。


ペスト菌はネズミやリスなど齧歯(げっし)類の体内にある菌で、これが人間の近くに住むドブネズミやクマネズミに広まり、ノミがネズミの血を吸いペスト菌を増殖させて、人間に刺咬(しこう)して移す。ヒトからヒトへは飛沫感染する。ペスト菌は摂氏マイナス2度からプラス45度まで生存する。スカンジナビア半島やサハラ以南で流行らないのはそういうわけだ。


しかし、この温度内なら感染者の衣類が自宅にあれば、冬の間、ペスト菌は生きながらえて次の年に再度猛威を奮う。そこで経験的に遺体を焼却処分や海に捨てたり、山へ捨てたりしたが、余りに人数が多くなると浅い穴に入れることだけになり、雨水でペスト菌が流れてきて住民を襲うことになるからやっかいだ。行政や経済はストップ、人間関係もストップだ。外を見ると人気(ひとけ)があっても「遺体を運ぶ人」が歩いているだけというぞっとする光景だ。健康な人は家の中でじっとしているだけというが、食べ物はどうしたのだろうか。


ペストの流行は、パンデミック以外は大体10年ごとに小さな流行があるので、極端なことをいえばヨーロッパの歴史はペストという病気の中でルネサンスや宗教改革があり、戦争があり、国民国家の形成があり、キリスト教徒の信徒が爆発的に増えたといえるかもしれない。私たちが学校で習った歴史は、ペストの流行は文化史や医療史の末端でしかなかったが、実は病気の中で毎日の歴史が育まれた、絵画や彫刻が作られた、印刷技術もペストの恐怖と闘いながらひょっとしたら生まれてきたのではないかと思うと歴史観が変わると思うがどうだろうか?


エンデミック(局地流行)がパンデミック(桁違い流行)になると社会はどうなっていくのか?現代なら直接に他人と接触しないネットの活躍の場面を想像するが、ネットには莫大な電力を使用しなければいけない。その電力を作るために火力発電所へガスや原油を供給する人たちやそれを輸送するタンカーやトラックの運転手が必要だ。そのインフラを維持する人がいてはじめてシステムは機能する。そういう維持をする人がいなくなるのだ。ネットは電力を食う。


話を6世紀のコンスタンチノーブルに戻れば、542年だけで首都の人口の20%が失われたとされる(誰もかぞえていないので昔の数字は当てにならないが)。544年3月23日、ペスト終息宣言をユスティニアヌス帝はしたが、ブログで書きたかったのは、生き残った人たちの次の行動である。「ペルシャ戦役史」を書いた歴史家プロコビウスの目撃証言だ。


「生き残った人々はホッとする。精神的な重圧から解放され~~病気から(自分は)救われ、呪いが他の人々にかかって自分たちがすでに安全だと思うや、そのときには、人びとはたちまち変節し、これまで以上にあらゆる種類の悪事と違法行為に、いつにない手並みを見せるのであった」。(筆者注:生々しい表現であるがさもありなんである。)


全体が200ページのまだ20ページしか読んでないが、この話は続編を書いていきます。学生時代に立川昭二「病気の社会史」を読んで感動したとききの記憶が蘇った本だ。

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