文字の氾濫するエジプト、ヒエログリフ(エジプト神聖文字)。

書記官

憧れの大英博物館には飛行機に乗れないので、図書館からNHK出版の『大英博物館』を借りて遊んでいる。エジプト編の最後に免疫学者の故多田富雄さんがエセイを書いているのを発見した。『生で見るロゼッタストーンが時空を超えて語りかける生命力』について感嘆した後、ロゼッタストーンの最上部にあるヒエログリフ(エジプトの神聖文字)は紀元前3150年ごろに突然現れて、4世紀末の碑文を最後に消えてしまう。3000年以上書かれていた言葉がどうして消えたか?である。多田さんはさらに『必要は発明の母で、人類最初の紙、パピルス紙が作り出されたのもヒエログリフを書くためなのである。書くことを専門とする≪書記≫という職業もできた。・・・そして書くことの神様、マントヒヒの形をした≪トト神≫まで創造された』。それとヒエログリフが書かれた場所である。

ロゼッタストンの上部に限らず、ミイラを保管する棺の内側・外側・蓋、石像の台座、神殿の柱や壁、自己増殖するヒエログリフである。もちろんこれを発見・解読したのは1812年ナポレオンのエジプト遠征で同行したシャンポリアンであったが、発見・解読されるまで1400年がかかった。一つの集団が文字を残す場合、どういう目的で何を残すのだろうか?エジプトの歴代王の事績や戦争、ナイルの洪水、作物の出来高、イナゴが押し寄せたことなども書いてはいるとは思うが、原文を書く人(書記)と石に刻む人(職人)がいる。原文を書く書記は最高権力者の了解事項を踏まえて掘らせたのだろうか?

『エジプトを旅して、毎日、ヒエログリフの氾濫を眺めていると、ヒエログリフがまるで生命を持っているように思えてくる。それはいまから50000年前に発生し、3000年余にわたって増殖し、もろもろの情報を秘めて、化石になってそこにある。じっさいヒエログリフには、生命の基本単位であるDNAと奇妙に符合しているところがあるのである。』(同著167p)DNAは34億年前に誕生したことになっている。DNAの二重らせん状の紐の錯綜の図とヒエログリフの氾濫する文字が情報の蓄積としてのDNAの進化に重なる。さらに34億年の遺伝情報が次々と読まれるのとヒエログリフが解読されてゆくことと似ているとも言う。

現在、上野の国立博物館でミイラを展示をしている。行くことがあれば、エジプトからのミイラで棺に掘られた、その蓋があればヒエログリフがあればじっくり見てきて欲しい。最初の問いに戻るが、なぜ文字を書いて残すのかという疑問だが、破天荒な私の答えだが、嘘をついたとき人間は饒舌になることを考えると、何か権力者は文字を残して物語を残して、何かを隠している気がする。つまりほかの民族や国へ横領や虐殺やその事件がやむ負えないことであったと告げる意味があったのではないかと推測するのである。加えて文字を操る人間は昔から権力に近いところに鎮座する。官僚や歴史家などである。庶民は声や物語の吟唱と・噂や祭りや儀式として残すが、権力は記録をねつ造したり削除できることは大昔から変わっていない。

一方、権力と対峙するところにいたのが詩人や文学者である、自分の言葉を持っている人たちの一群である。だから殺された人も多い。エジプトは紀元前13世紀に一時、多神教なエジプトを一神教に国中をまとめたアメンホテップ4世が出てきた。それまで約2000の信仰対象があったのを強引に捨てさせ、捨てない者は虐殺した。王は病死して再度、多神教に戻るのだが、当時の一神教の高官がモーセ。彼はエジプトに住み続けると殺されるので『出エジプト』をするわけで元々エジプト人であり、彼らユダヤ人を引き連れてエジプトを出たが、旅の途中、ユダヤ人に殺されたというのがフロイトの説だ。

横領や虐殺をする側はとにかく都合のいい記録を残す、ときに関心を自分たちの側の犯罪の核心に来ないようにする。(*現代でも世界中で行われている)。そういう血塗られたエジプトの歴史がヒエログリフの氾濫を招いた、歴代王朝が正当化するために文字で残したのではなかったか。話変わって、『社史』という企業編纂物がある、都合の悪い事案(会社を恨んでいって辞めて行った人)は載せないようにするのはなぜか?利害集団は必ず、何かを隠す。『参考松岡正剛 文明の奥と底 角川文庫 73p)

『文字の氾濫』の話からそれたが、なぜ宗教は『言葉』を残すのか?旧約・新約聖書、コーランから、仏典。さらに創価学会、幸福の科学まで。文字を書き続けて他人の人生に介入してくる。そしてなぜ『説教』になるのか?そしてその説教を暗記して別な人間に『説教する』。別な人間もまた説教を繰り返す。まるでDNAのコピーみたいだ。それはいつしか『洗脳』になっている。

  1. 多くの人は、自分自身の考えよりも、集団の考えに共感したがるものですね。何故なら、その方が生きて行く上でラクだからでしょう。自己主張の強い人たちは、体制側から見れば邪魔な存在ですから目障りとばかりに追い払ったり、挙げ句の果てには抹殺など過激な手段に出たりします。大きな組織を統括するには、個人の意見を尊重してばかりいては不可能とばかりに特権や言葉で統制を図りますね。チームワークなども、その線上にありますが、まとまっている集団とは自己主張しない、あるいは利害関係で同じ目的で寄り添う人たちの集まりなのでしょう。政治家も宗教も企業などの組織もマナス面ばかりではありませんから、全否定はできませんが、言葉や文字で誓いを立てたり、法律を決めたり、人間同士のコミュニケーションツールばかりではなく、集団統括のための掟作りのツールにも使われたのでしょうね。既成事実として残す為に。

    • 的確な返信、ありがとうございました。世の中を変えて行った人材はすべて当時から言うと異端者ばかりです。ソクラテスからガリレオ、ジョブスもそうです。アインシュタインも任天堂のゲーム機開発者も。本田総一郎さんも、そして坊主の孫さんも連なるかもしれません。何かを作り出す人ですね。身近にもそういう男たちけっこういます。そういうことができる人の共通は『自分の言葉を持っている』です。自分の趣味や好みに忠実、氾濫する言葉の中で真偽を見極められる(全部ではないが)。それ以上に、感性を養育することにも惜しまない人たちです。組織・集団では、それを離れるともぬけの殻ですが、感性や自分の言葉は地域や空間を離れてもイキイキと躍動するはずです。私もそれを目指して生きているのですが、なかなか難しいです。

Leave a Reply

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です