小さな村があって、そこに長老がいて「隣の村に行って、物を盗んだり、この村にないものを欲しがってはいけませんよ」と村人を諭した。隣の村にも同じように考える長老がいて、境界線を守って平和に自給自足の暮らしをしていた。そういう考えに至ったのには訳があって、昔、国境線を超えて、隣の村同士が戦争になってしまった記憶があるのである。そういう歴史を知らずに、ある日、その国境線が越えられた。超えたのは血気盛んな若者たちで、手に鉄器を持っていた。隣の村で飼っていた羊やニワトリが欲しかったのである。さらに隣村の美人の女性を嫁にしたかった男もいた。一度、国境線を超えると、今度は向こうから武器を持ってやってくるようになった。飼育していた豚も盗まれたし、何人もの村人が殺された。どちらの長老も「横取りをしてそのときは、美味しいものを口にしても、いずれどちらの村もさらに大きな村に襲われて、悲惨な事態になる」と予感した。(筆者の寓話)

翻って、いまの企業や業種を見てみると、言葉は悪いが「横取りで繁栄している」企業ばかり。時間をかけて育てた人を別な企業が横取りしたり、国民の税金を横取りして議員バッジをつけて横柄に生きる人も多い。しかし、民間でも、独立したはいいが、前の会社の仕事をこっそり盗んでのうのうとしている起業家も多い。丁寧にせっかく育てた通販会社をごっそり大手に盗まれた(プレゼで負けたと言う)り、IT関係も大は小を食うの格言通り、人材ごと横取りしていく(株式を取得するという)。スーパーの進出で地元民の財布からお金を巻き上げていくと、商店街にお金は落ちず、スーパーの本社にお金は還流してしまう。(大型店舗法律にもとづく合法なことと言う)いつのまにかそれが当たり前になってしまった。

人材派遣法の全業種適応も、はじめは通訳や速記士など専門性に限定されていた業種をどんどん広げてサービスや製造業へ広げていった。正社員であればもらえた給与とボーナスを横取りして幹部の給与と社内留保に消えた(合法的なんだ、会社が倒れてもいいのかい。そのため留保しているのだという理屈)。

しかし、考えてみると、16世紀ヨーロッパ。カトリック信者がプロテスタントに宗派替えをする人が急増し,慌てて信者を増やすためにイエズス会を中核に布教と海賊(ならず者)の宝(インドの綿やマラッカのコショウ、ゴムや金・銀など)探しで、アジアやアフリカ、南米、カリブ、北米、中国、中東へ植民地経営に株式会社という組織を作り、物産の横取りを彼らの法律に基づいて稼ぎに稼ぎまくっていた。物産の次は奴隷の交易(売買)である。ほかの土地の産物を右から左へ流すだけで、嵐に船が沈没さえしなければ巨利を得られる。金持ちがより金持ちになる構造は現代以上に16世紀から19世紀のヨーロッパ中流階層のほうが激しいかもしれない。日本では、先ほどの小さな村の話ではないが、鎖国という制度で武士以外は刀を捨てて(刀狩り)小さな争いはあったが穏やかな200年を謳歌していた。小さな村であった。

幕末から明治にかけて、イギリスやロシア、フランス、アメリカ、ドイツのインテリ層・軍人がやってきて明治という殖産興業の時代に入るのだが、庶民の歴史は江戸時代の延長であった。短命であった子供たちは、生きている間、思いっきり自由に伸び伸びと育てられた。IT時代に入っても、携帯やパソコンを使わず、おしゃべりに夢中なおばあちゃんのように。健康面からみるとおばあちゃんの勝ちである。

  1. 横取り経済ですか。確かに。同業他社間での技術盗用は当たり前。ヘッドハンティングなどと上品ぶって、他社で育てられた優秀な人材の横取り。地元商店街が長年育てた地域商圏へ乗り込むフランチャイズ。同業種のすぐ横にライバル社の新店舗開店。それどころか同じ系列の同業店さえ隣に作って競争をさせたりと。今やビジネスとは、まうで泥棒と詐欺師を地で行くようなものですね。良い物を真似てさらに良い物を作り出す事は、消費者にとっては確かに良い事かも知れませんが、その開発プロセスも真似事に過ぎず、販売法も今や何処もかしこもフランチャイズ化とネットやTVなど通販一辺倒です。これが当たり前と、勘違いしてしまった消費者にも責任の一旦はありますが、利益も本部を地域外に置く大手に集約(横取り)され、消費のみでは地域経済の活性化と果たして言えるでしょうか。

    • 原始の経済から横取りは、ふつうのことであったのだろうと思います。言葉も考えてみると、誰かの言い回しを真似ていたり、盗んだりしています。私のブログも誰かの一言を真似て書いているからえらそうなことは言えません。パソコンに百科事典もあるので横取りしている人多数。などでどこかで間違うと拡散します。横取り失敗です。

  2. 真似るより、真似される人に成れ。と教わりましたが、苦労して作り上げたものを、いとも簡単に真似されてばかりでは、やってられませんね。かと言って、真似されたら更に真似をしていればオリジナル性の無いものに成り兼ねません。独創的な発案は尊重されるべきで簡単に盗用されるべきではありませんね。仁義(モラル)なき現代ビジネスも行き過ぎの感がありますね。こんなご時世ですが、独創性を貫くには、どんなに真似されても、我が道を行くしかありませんね。真似される人でありたいものですね。

    • 真似される人は、たえず新しい発想を持ってるので大丈夫だと思いますよ。すべてに『疑え』から考える癖は持ちたい。楽に生きたければ(オウム返し』で生きればいいのですから。

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