「無縁社会」~無縁死三万二千人の衝撃~(NHK無縁社会プロジェクト取材班)から。(文藝春秋)2010年発行

一人暮らしをしていて孤立死した人を丁寧に追跡した本だ。「身元不明の自殺」「行き倒れ」「餓死」「凍死」を無縁死と定義して全国の市町村へ調査した結果、10年前で三万二千人いる。たとえ親戚を見つけて連絡しても骨は「受け取りません」という人も多い。その事情を追いかけて、現代を血縁ない、地縁ない、会社縁ない「無縁社会」の実態を浮かび上がらせている。いったい家族ってなんだという問いに向かう。しかし、そこには宙に浮いた骨がある。富山高岡市の高岡大法寺では、引き取り手がない骨壺を送ってもらい供養している。NHKの記者に栗原住職は「私たちだって、ひとつ人生を間違えば、ひとつ歯車が狂えば、独居老人になって、孤独死をせんといかんかもしれない。決して我々と違った人生を歩いてきた人たちじゃないのでね。みんなちゃんとした一生がある。」(同著84p)

みんなちゃんとした一生がある

NHKの警察詰めの元記者は、不明死体に事件性があるかないかの基準で追いかけていたころの自分を恥じた。事件性がなければ次の仕事に移っていったが、しかし、人の死は事件性があろうがなかろうが、ちゃんとした一生を持った人の死に気づいた。有名・無名も関係ない。都内のアパートで孤立死した人の賃貸契約書と定年まで働いていた会社から出てきた履歴書から本籍地を割り出し秋田へ向かう。彼と仲の良かった同級生にも会い、学校時代の写真に遭遇、さらに彼を知るおばあちゃんも出てきて両親の墓に案内される。彼には入るお墓があったのである。建具職人をしていて結婚もし、子供もいたが、知人の連帯保証人をして倒産と離婚。単身東京へ来たことが判明した。それから故郷とは切れたが、両親の墓を守る寺へ彼が毎年供養代金を振り込んでいたことも判明する。無縁ではなかったのである。

生きている限り、無縁の人はいない。そんなことを考えさせられた。彼の人生を追いかける人がいないだけである。記憶にとどめて彼の人生を語れる人は現れるものである。そこに救いを感じる。早くしないと記憶は月日に消されてしまう。急ごう。

  1. 兄弟姉妹は他人の始まりとも言われますが、親の生前時には皆んな集まった絆も親の他界後は次第に離れだして他人の様に、いや他人以上に関わりたくない関係にもになりますね。自分たちの暮らしで手一杯なのでしょうか。これも核家族化の産物なのでしょうね。長男が実家を継いでいた昔と違い、両親が亡くなれば実家の存在が無くなるからでしょうね。せいぜい電話でお互いの連絡はしても逢う事も無く、ましてやコロナ禍の現状では尚更遠い関係は加速するばかりですね。

    • 長男や実家を引き継いだ兄弟がたえず連絡をしあって「困ったことはないか」と電話をこまめにくれた叔父がいました。母の弟ですが、9人兄弟で「とうとう俺一人になって寂しいよ」と電話で話してきたことがありました。いい兄弟を持って母は逝きましたね。そういう兄弟関係って、これから少なくなります。格差が兄弟間でも出てきて、暮らす価値観(子供のころは同じ境遇であったのに)にも落差が出てきて、自慢や卑下や複雑な感情模様が出てくるわけです。

  2. 無縁社会とは正に言い当てていますね。無縁仏、無縁墓石、など増える一方ですから、昔のように墓を作る事が常識の時代は終わったのかも知れませんね。第一に墓守りをしてくれるであろう息子や娘や孫たちが果たしてどれだけやってくれるか?も疑問ですし、元々、墓守りなどやる気もないのに墓を残す意味はないのではないか?とさえ考えてしまいます。現に私自身も両親の墓が本州の田舎に有るのですが滅多に墓参には行けません。コロナ禍が始まる前年に久しぶりに行って草刈りやらお花をあげたりしましたが、昨年と今年はコロナ禍で行けませんし、これからも毎年の墓参は出来ません。それに長男は他界、3人の姉たちも高齢になり身動きできなくなっています。最後に末っ子の私に責任があるのですが、墓仕舞いもと考えたりもしますが、それさえ決心が付きません。お墓の存在は重く、私も死んでこのまま放置すれば無縁墓石になってしまいます。私個人としては自分のお墓は作りたくありませんし、本州の父母の墓に入りたくもありません。つまり墓は要らないし、せいぜい位牌くらいにしておいて欲しいです。

    • 納骨堂に父母の骨壺があって、残り4人は入れますが、妻は嫌、私も住職嫌いで入りたくない。埼玉にいる知人に聞くと、寺にある樹木葬にした。平らな石板をプレートにして夫婦で作ったと。海に捨てたりするよりいいなあと思います。市民全体の集合墓地もありますが、神社やお寺の人に聞くと「それは止めたほうがいい。あくまで個人として敬いなさい」と注意されました。長男は川崎在住で北海道へは戻らないと納骨堂は結局、息子が引き継ぐことになりそうです。または墓じまいをするかですね。

  3. そうですね。誰にも見事なシナリオの一生が有るはずですね。華々しく名を遺す人も居ますが、よく聞かなければ知らなかった凄い生き方をしてきた人たちもこの世には多い筈です。しかし一生というジャンルでは誰もが同じですね。裸一貫で生まれてきて、また裸一貫で去っていくわけですからね。人生の最初と最後は、上下の差も貧富の差も、価値そのものも、皆同じな訳ですよね。

    • おっしゃるとおりで、生きている間はそこに気付きにくい。年とともにわかってくる人生観です。老人はどんどんお金を使って子供や孫に遺産相続を現役時代からすべきですね。高齢者で通帳でトランプしている人もいるようでいい加減にしてほしいですね。昔、北洋銀行の株主総会の見学に招待されたことがありました。質疑応答があって老人が挙手「聞くところによると北洋さんの給与が高すぎると聞いております。そんなに出せるなら我々株主に配当を増やしてほしい」と発言。私から見たら棺桶手前でまだ欲を達観できない金持ちをみました。総会に出てくる老女老人の群れを見ていると気味悪くなります。同世代で困ってる人に手を差し伸べたらと思いましたね。貧乏人育ちなので私は特にそう思いました。

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