紀元前6世紀、ミレトスの自然学者ヘラクレイトスが残した言葉。「人は二度と同じ川に降りて行かない」も「流れゆく川の水はつねに変化している」という意味と、「我々自身が流れゆく川以上にうつろいやすい存在だということ」だ。ブエノスアイレスの大学で講演したボルヘスの一節(語るボルヘス28p 岩波文庫)。1212年に書かれた鴨長明「方丈記)にも有名な「ゆく川の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず.淀みに浮かぶうたかた(水の泡)は、かつ消えかつ結びて。久しくとどまりたる試しなし。」ヘラクレイトスが亡くなって約1800年の時を経て、自然や疫病や火災・餓死など災害を観察してきた鴨長明が同じことを言っている。それから800年後の1978年、ボルヘスは「書物」を川にたとえてヘラクレイトスの言葉を借りる。書物を記憶の川にたとえるのだ。読み手が同じであってもそのときの体調や様々な人生体験を経て、同じ文を読んでも、まるで以前とは違う印象を与えるのだと言う。過去の記憶も同じように、現在が幸福な感情に包まれてあるとき、どん底の心理状態であるときで、過去の思い出が変わる。「あの経験がいまの自分の頑張りの原点であった、あのときは大変であったが何とか乗り越えて今がある」「あの体験がなければ、もっと私は豊かに暮らせたはずだ」

過去の記憶が人間の大脳や記憶野に包まれてあり、機会があれば飛び出して、私たちを励ましてくれたり、がっかりさせる。記憶においてだから客観性は担保できない。たえず揺れているということだ。流れている川のように。書物も流れている。映画やドラマも2度見ると科白に発見がある。

人は二度と同じ川に降りていかない」」

筆者の住む団地を流れる小川
  1. 記憶を司る人の脳は不思議ですね。生まれて言葉を自習して覚え、あらゆる習性を学習して成長もピークを迎えると今度は次第に記憶もあいまいになりますね。更に不思議なのは忘れるはずの古い記憶がよみがえる事です。最近の記憶をすぎに忘れるのになぜか古い記憶がよみがえるのです。近所の認知症気味のご老人の例では、樺太の話ばかりするようになったとの事です。歳をとると幼い頃に帰ると言われていますが、彼は樺太からの引揚者だそうです。ひょっとして?そんな私も最近は昔の田舎の話ばかりをして居るのでは?と。

    • 大脳の古層に刷り込まれた記憶がよみがえると思います。何度も繰り返し思い出していたことが、働くようになって次々、新しいことを覚える(記憶に)被さっていたんだろうと思います。私も少年時代や独身のときに仲間たちとフナ釣りをして、入れ食い状態だったなどと思い出すと、「そうだったよね」と返信がきます。「あの市場のコロッケ美味かった」とか美味しい・楽しい思い出出てきますが、つらかった記憶も同時にありますから、いいような悪いような。樺太体験は人生で決定的なことですから。私の父も満州(満鉄)帰りですから、言葉には出さなくても夢の中で反芻していたと思います。少年時代に亡くした母親の思い出かもしれないし、妹をストーブのお湯がかかり火傷で亡くした思い出かもしれません。どちらにしろ父の人生にとって大きな出来事であったろうと推測しますが、「二度と同じ川には降りられない)。

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