人の幸せがどこにあるか?他者との関係性の中にしかない

森達也さん著「私たちはどこから来て、どこへ行くのか」

森達也さんの科学者との対談本「私たちはどこから来て、どこへ行くのか」の中で8人目の対談者は脳科学者藤井直敬が発した言葉。脳は解剖や脳地図で、ここは何々をする分野、ここはどんな機能があるとか、これまで「脳」を単体として考えてきたが、それは違うのでないかと藤井さんは言う。脳細胞も機能するためには、たくさんの周りとの関係性がないと働かない。あたりまえと言えばあたりまえなことではあるけれど、医学書のカラー原画の脳地図の静的な脳ではなくて、他者との関係(隣の脳細胞や脳を浮かべている脳漿も関係しているかもしれない)で脳の働きを見ないといけないと言う。脳から発せられる、瞬間的な出来事であっても「幸せ感」を感じる前の出来事を考えると、そこには他者がいて、何かの関係性の充実感や達成感があるはず。幸せはとりあえず金・金・金・だよと言う人も多いが、それは「手段でしかない」。紙幣は金庫に入れて置き続ければ、紙屑でしかない。お金が一番好きな行為は「運動」である。「楽しい飲み会」や「充実の会話やデートができた」とき、それを支払う余裕があれば1億円なくても全然OKなのは、日常繰り返し体験していること。幸せそうな人を職場やランチタイムでの笑顔を見ていると「他者との関係」(思い出の想起を含めて)を上手に使い切ってる人のような気がする。どうして幸せそうな人ははっきり顔に出るのかとも思う。例外なしに幸せそうなのは婚約者が決まって婚約指輪をしている女性である。彼との暮らしの様々なシーンを思い浮かべているのかもしれない。ここでも幸せは他者との良好な関係性(婚約者という伴侶を見つけた)が支えている。男の方はこれから暮らしをどう支えていくかという緊張感で包まれる。他者とはしかし、家庭の中では夫婦関係や子供との関係、近所付き合いの関係も含まれる。嫁や舅も含まれる。しかし、大きいのは「自分との関係」かもしれない。外から自分を見てみる、客観視できる目というか視点である。この訓練はどうやって身につけるのだろうか。自分を自分で笑える人、他人の前で自分の失敗談ができる人が好かれるのも、天性もあるだろうけれど、どこかで訓練できないものだろうか。なぜなら、世間で(外交でも)敵を自ら作らない生き方ができれば、それにこしたことはない。「自分との折り合いが無理な見栄を張っていないか?無理な出費をしていないか?知ったかぶりの無理な発言をしていないか?」など背伸びし過ぎた生き方で「自分自身が疲れてしまう」。しかし、最初の話に戻ると、本当に人間はどこへ向かって行こうとしているのか?インド人のジャーナリストナヤン・チャンダ「グロバリゼーション 人類5万年のドラマ」(NTT出版)を読み始めたので何かヒントがあれば、また紹介します。

  1. 脳が感じる幸せ感とか平和とかも、自分自身の細胞も含めて、いつも何かの犠牲の上に立っているのではないでしょうか。幸せな家庭の中でも、それを支える者が居るはずで、果たしてその者は自分自身が本当に幸せと感じていないかも知れません。それよりも家族の幸せを気分の幸せに置き換えて居るのでは無いでしょうか。脳細胞も健康維持で活発に働くでしょうし、その逆で、何か不安材料でも発生すれば、たちまち不調のシグナルを発するでしょう。一番の幸せは悩み事が無い事に付きますね。

    • 幸せ感も長続きしませんね。五木寛之の本には、不幸を知っている人、貧しさを知っている人、虐められたことがある人が「幸福」感を享受する(できる)とも書いてあり、坊主の孫さんもいろいろ苦労されているがゆえに、そのとき周りにいたたくさんの人、またその後に人生などが遠くから聞こえてきたりして、振り返って自分の幸せを感じるときもあるでしょうね。わたしもまさか戸建ての家を持てるなんて信じられない人生でしたから、幸せな感じを持ちます。心臓の病気で死にそうになりましたが、それがあるゆえ、ラッキーな人生と思います。悩みがなくなることはお互いないと思います。いろいろな人と話すと悩みのない人は生まれたての赤ん坊くらいではないでしょうか。悩みだらけです。で、解決不可能な悩みも多いです。夫選びを間違ったという妻の悩みにこたえることはできません。

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