敗者学のすすめ(山口昌男)
『敗者の精神史』(岩波)も含めて『敗者学のすすめ』も借りてきた。膨大な読書量とアフリカのフィールドワークも含めて、圧倒的な知の量で民間を鼓舞する山口昌男さん。明治維新で薩長連合が明治政府の中枢を握ってしまい、文化的な野蛮性が江戸を支配して、文化レベルが低下したが、様々な幕臣や幕臣の子供たちが官位を辞したり、逃げ回り、様々な分野で活躍する場面を掘り起こした本である。
縦のピラミッド型ではなくて横のネットワーク人脈や職業や年齢を超えて『興味や関心事』で集まる同好会組織に視点を置いている。『日本における人類学の父』と言われる東大の坪井正五郎の主催した『集古会』は明治25年に始まり、勉強好きが集まった。明治・大正・昭和と続いた民間のアカデミーで『街角のアカデミー』と山口昌男は命名。
この本が書かれたのは、何でも成功体験ばかりが書かれて、勝者伝説(物語)やアメリカ流ビジネスが売れていた時である。そしてご存じバブル崩壊。『戦後の経済復興で安定したはずの日本経済システムを、我々は何となく不動の現実であると考え、左右を問わず甘えてきた。昭和43年(1968年)の学生の反乱の際、うろたえて右往左往する大学の様子を世間は他人事のように見ていた。その頃、山口昌男は、大学に起こることはそのうちビジネスの社会にも起こるのではないかと感じていたものである。
事実、バブル崩壊後の不景気、構造汚職に現れているものは、不動のはずだった現実のかなりの部分が幻であったという事実である』(79p 敗者学のすすめ)不動の現実はほぼないと考えてみると東芝しかり、タカタのシートベルト、銀行のサラ金化(カードーローン販売ばかり)、ゼネコンを含めて原発関連企業の経営の傾き、放射能で汚染された空気の中でこれから何十年も生きていかなければならない日本人(人類)。そして安定しない大地。突然の地震と火山と豪雨も覚悟しなければいけない。
世の中で起きている事件はいずれ自分に来る。病気の発症もある日突然である。山口昌男の本を読んでいると、『歴史には勝者はいない。ビジネス社会にもひょっとして勝つ人は誰もいないのではないか』と思う。政治や戦争ももちろんである。短い時間で区切れば『勝った、負けた』があるだけ。すべては敗者の歴史に収斂する、山口昌男さんが晩年、追い求めた仮説・真理はそういうことだったのかもしれない。
まだ彼の本を読み終えるには相当な時間を要するが、歴史に限らず、個人に限っても勝者は実はどこにもいないかもしれないと思う本である。いずれ迎える死を前提に生きているわけだから、健康神話をばら撒くCMのまやかしの世界に踊らず、隣の困ってる人をせめて助ける人生を繰り返すことで、精神の健康を保ちたいものである。「敗者学」にはたくさんの助け合う横の人間関係の例が、文化・政治にレベルでも起きていることが知れる。
坊主の孫。
勝者ばかりが取り上げられて、それに感心したり称賛したりするのが常ですが、勝者も敗者になっていたかも知れませんから紙一重ですね。人間最後は皆同じ、勝者も敗者も僅かな骨が残るだけですね。生きている内に何か世の中に役立つものを一つでいいから残せれば最高ですね。
seto
勝・負って「限定的でしかない」ということですね。土俵が違えば勝者も負けです。人生は全体ですから。全体の中でも一番大事なのは、人間性とマナーと常識、他人をだまさない、相手を殺さないということでしょう。昨日「戦争と科学者」をペラペラ読んでました。ノーベル、石井四郎、アインシュタイン、アスペルガーなど9人の科学者で、毒ガス(チクロンB)の製造者もいます。原爆にしても水爆にしても、狭い分野では発見・発明であっても「国家のため」とか「戦争を早く終わらせるための発明であった」とほとんどの科学者は弁明します。そして後日、ノーベル賞をもらいます。アスペルガーは(劣等な人々や子供を)殺処分することもしていた小児科医です。ナチスに加担していました。ノーベルも自分の開発したダイナマイトが結果として、鉱物資源の利用とか人類の公益に資すると思いきや大量死につながるものをつくってしまい、贖罪の意味で「ノーベル賞」をつくったわけで、彼も実は敗者ともいえます。大富豪にはなったけれども大量の死者を生んだわけで、現在もロシア・ウクライナで爆発・殺戮が続いているわけでね。アスペルガにしても、優秀な民族とか劣等な人とか腑分けして焼却炉へ送ったわけです。教育でも偏差値教育として現在も日本の教育界を覆っています。自分の偏差値をあげるための一番の近道は、近くの人間の学力を下げることで偏差値が上がるわけです。あら捜しばかりする人間が増えた背景に、偏差値教育があるでしょうね。SNSも匿名で相手を貶める行為ですからね。
広告マン。
兵器開発から平和利用に役立ったものもありますね。戦車の砲台の回転などは正にパワーショベルですし、飛行機もそうですね。他にもいろいろあるのでしょうが、銃だけは平和利用とは程遠いいですね。アメリカでは青少年の銃乱射事件が頻繁に起きて居ますが銃の規制がゆるいですね。理由は『自分の身は自分で守る』とまるで西部劇の時代のまんまの考えですから信じ難いですね。
最近殺傷能力の高い銃に対する販売規制と言っても、年齢制限で、実は誰でも銃を買える事自体が変わらない限り事件は無くなりませんね。帯刀して街を闊歩していた日本人ですが、戦争にも負けて武器を捨てたお蔭で、この手の事件は少なくなりました。敗者だからこそ得る事ができた平和ですね。
seto
軍事からできた技術がインターネットです。ピラミッド型の連絡網の場合、頂点をやられるとほかも全滅。それを防ぐ意味でここがやられても次のところがあるということで、横のつながりを次々つくっていったわけです。アメリカの軍事技術を民間に開放したわけです。銃は売っても弾は売らなければいいわけです。それだけでも違いますね。銃がないと自ら守れないとは、他人を信用していない、弱肉強食の社会がいまも続いている遅れた社会だと言うことで、経済でいえば新自由主義そのものです。とにかく太平洋戦争から今日までアメリカは戦争を止めたことがありません。それと価値観を他国へ平気で押し付け、守らないとズドンとやる癖がついてしまいましたね。自分がやらないが応援する国に武器を与えたり、軍事訓練をさせたりしてそそのかしをしますから、タチが悪いです。CIAや英国の情報局と絡んでアングロサクソンの英語帝国主義を形成していますよ。ウクライナを見殺しにさせているのはアメリカのような気がします。トルコにがんばってもらうしかありません。