たくさん持っていることは恥ずかしい
狩猟採集民にある慣習で、だれよりも大きな獲物を獲得したら、目立たず、恥ずかしそうに獲物を共同体の中に置いて去るという習慣がある。共同体を維持するために大昔からの慣習だ。そうしないとその人間は「威張る」、それを防ぐ意味で必要なことなんだ。きょう大きな獲物を捕獲したからといって明日も捕れる保証はない。明日は別な人のお世話になって食べることになるかもしれない。それより大事なのは共同体が安定して、楽しく安全に過ごせること。農業が始まる前の社会は小グループでたえず移動して、木の実や小動物を捕獲して、少しの労働と子供と遊んでごろ寝して、他人の子供へも気遣いしながら暮してきたんだろうなと想像する。生まれてきて死ぬまで、同じ共同体で生きるためには、たくさんの民族で行われてきた習俗・習慣だ。「俺が俺が、私が私が」と出張る、いわゆる個人の能力や才能が過大評価されて、それがメディアでアナウンスされ、スポーツや芸能で溢れる現代。個人の能力が金銭の勘定指標になる世界では、片隅に追いやられる考え方かもしれない。
そういう時代だからこそ、「だれよりも大きな獲物を獲得したら、目絶たず、恥ずかしそうに獲物を共同体の中に置いて去るという習慣」かっこいい生き方だと思わないだろうか?獲物を得るまでに彼は長老や父親から捕獲の方法を習い、仲間の人からも動物の走る方向や捕獲した後の危険もふくめて教えられてきたわけで、個人の能力は個人で自己完結はしないものだ。さらに大きな獲物が彼の前に現れたという偶然の要素も大きい。この偶然で自らの命を落とす場合も考えられる。個人は大きな自然や共同体の中で生きている。
「個人」という考え方が出てきたのは12世紀(中世ドイツ史家阿部謹也さん)、ずいぶん新しい概念だ。都市の成立でギルド制度の縛りが緩くなってきた時期に重なる。個人という概念が現れて800年しか経過していない。日本では結局、ヨーロッパ的な意味での個人はなくて「世間」しかない。個人が個人であるためには、横に息子を置いたり、縁者を後ろ盾にしたり、祖先の偉いさんをバックにしたり、生きるしかない。経営者も親の財産の後ろ盾もあって、支えがあって生きていける。そもそも共同体に信頼を置いていないから、信じれるのは身内だけの身内社会がど構造的に蔓延してしまう。政治と経済の大まかな部分はそうなっている。
しかし、「たくさん持っていることは恥ずかしい」という話を日々観念として豊かな人たちが持ち続ければ、この社会はずいぶん住みやすいところになるだろうと思う。消費には際限がないということに気づけば、ゆったりした気分で生きられる。縄文や旧石器時代のほうがうつ病もなく時間に追われることもなく、コスパやタンパなど話すこともなく生きられる。そういう空間や時間を自分で作り出したいものだ。